goo blog サービス終了のお知らせ 

自主映画制作工房Stud!o Yunfat 改め ALIQOUI film 映評のページ

映画作りの糧とすべく劇場鑑賞作品中心にネタバレ徹底分析
映画ブロガーら有志23名による「10年代映画ベストテン」発表!

エンジェル [監督:フランソワ・オゾン]

2008-04-19 18:09:03 | 映評 2006~2008
個人的評価:■■■■■□ (最高:■■■■■■、最低:■□□□□□)

****【雑談…我が家におけるオゾン】****
映画キチガイの私が、映画好きだがキチガイでもなかった恋人(今の妻)に、「これ絶対面白いから観たほうがいいって」といって、気乗りしない彼女に半ば無理矢理見せたら、私の予想をはるかに上回るほど号泣されて、かえって困惑してしまった映画が二つある。
小津の「東京物語」とオゾンの「まぼろし」である。多分この二作は私より妻のほうに強く愛されている。OZUとOZON。スペルが似ているのは偶然だ。
そんなこんなで「東京物語」と「まぼろし」は我が家のヘビーローテーションDVDとなっている(「男たちの挽歌」と「挽歌2」もヘビーローテーションだが)。オゾン作品は他に「8人の女たち」も「スイミング・プール」もDVD購入。「オゾン」という名は少なくとも我が家ではビッグネームである。
しかしミニシアター系ヨーロッパ映画作家の宿命ゆえ、なかなか地方都市で新作がかかることはない・・・のだが、塩尻市の東座さんのご尽力によりオゾンの新作をスクリーンで観ることができてうれしい限りであった。

黒澤といえば三船、ジョン・ウーといえばチョウ・ユンファ、小津といえば原節ちゃん・・・で、オゾンと言えばシャーロット・ランプリング。
「世界でもっともエロティックな60代」「ナチュラルに人を見下す」「どんな怒っていても悲しんでいても口元だけは上機嫌」
様々な形容の仕方が思いつくが、そこにいるだけで、明らかに他の人たちと違うオーラをむんむんと発散して惹きつける、紛れもないスターだ
ちなみに私の妻は、「シャーロット・ランプリングの真似」をやる。これがかなり似ていて笑えるのだが、デ・ニーロやシガニーなんかと違い、よほどの映画ファンじゃないと通じないので、会社の飲み会等では封印を余儀なくされているネタである。
ちなみついでに、私の妻は「ケイト・ブランシェットの真似」もするのだが、これは全く似ていない。
本作の唯一の不満はシャーロット姐さんの出番が少ないことだが、それでもなお短い登場時間で強い存在感を発揮し、彼女のシーンでは他の役者は完全に食われる。

俳優話ついでに・・・かつては悪魔の御子だったり、失語症の妻の指を鉈で叩き切ったりしていたサム・ニールは、いつの間にやらでっぷり肥え太り、すっかり毒気の抜けた「いいおじさん」になってしまっていた。かつての触れただけで切れそうな怖さは微塵もなく少し寂しい。二度の生還を果たした例の「公園」にもう一度行けば今度こそ喰い殺されるだろう。

****【「まぼろし」と「エンジェル」の表裏一体関係から考えるオゾンという作家】****

などなど、雑談めいた話から入ったが、「まぼろし」を最初に持ち出したのは、本作が「まぼろし」の対極にあるような作りとなっていると思えるからである。
「まぼろし」は現実が妄想に侵食されていく物語だった。
主人公は人生の酸いも甘いもすべて経験してきたような熟年女性。
映像は、室内は自然光を取り入れたかのようなナチュラルライティングで、そもそもロケシーンが多い。
演技は自然体で実際の生活をそのまま撮っているかのような印象。
凝った仕掛けも立派なセットもなく。
フィリップ・ロンビの音楽は、ピアノと電子音とパーカッションの小編成で主張しない地味なもの。
主人公夫婦は、特別裕福でもないが庶民にも想像できる程度に生活にゆとりのあるインテリ夫婦。

****「まぼろし」あらすじ。結末まで書いてます****
ある日、長年連れ添った亭主と海辺の別荘に出かけるが、海水浴中に亭主が行方不明になってしまう。
捜索願いを出すが亭主は見つからない。
亭主は亡くなったものと周囲の人間は考えるが、当の妻は亭主の死を認めない。
それどころか、誰もいないはずの家に帰ると、妄想の亭主が現れ夫婦の会話が交わされる。
妻は、別の男性と肉体関係を持つが、「不倫」を続けることに悩む。
亭主名義の口座が閉鎖され、カード払いが滞り借金がかさむといった現実を突きつけられ、次第に亭主の不在という現実を受け入れようという気持ちになっていく。
ついに沿岸警察から行方不明の夫と思しき水死体を発見との報を受け、あの日の海岸に行くが、妻はその死体をみるなり笑い出し、夫じゃないわと言う。
********


「エンジェル」は、空想世界が現実に負けて崩れていく物語だ。
主人公は空想好きで世間知らずの若い女の子。出産もセレブな生活も恋する苦悩も実体験はなく特にリサーチもせず、想像力だけで小説に書いていく。
カット割を計算して作られたイカニモなセット。
もろ段取り芝居で舞台劇のような演技。
照明は凝っているし、プロポーズとともに雷がなり雨が降るという、いかにも演出していますという映像。
小説が売れセレブとなった主人公は様々な色彩のドレスに身を包み、超豪邸に住む。
フィリップ・ロンビの音楽も、フルオーケストラで作品を艶やかにする主張の強い音楽。

いかにもな芝居、いかにもなセット、いかにもな音楽、いかにもな演出・・・なにか昔の1950年代ごろの映画を見ているような気にさせられる。いやもっと下がった時代のアメリカのコメディTVドラマのような感覚もある。
それは空想の世界に生きる女の子が夢想した人生を表現するため。

しかし無知な少女は、セックスをし、流産をし、夫の背信に自殺とそれまで空想できなかった現実に次々直面する。
戦争も作品内では台詞でしか語られないが、それは夫婦を引き裂き、一人空想の世界で生きてきた主人公に、国の一員であるという現実を突きつける。
それでも、照明も演技も画のトーンも最後まで「作り物的映像」で統一されている。
空想が現実に抗うように。

小説が出版された直後、出版社の人にエンジェルが語る。
「私の言葉に真実はない」
この映画すべてが、世間知らずのエンジェルが創作した空想世界であることを示唆する台詞ではなかろうか。
そう思えば、最期の言葉を吐いてからがっくりと崩れ落ち、最期を看取った娘が泣き崩れるという、現実味のない安手のドラマのようなシーンでさえも、別種の感慨が満ちてくる。
母を失ったエンジェルに対する感情移入というより、母の死さえ現実感のない空想世界でしか表現できないエンジェルへの哀れみである。
「まぼろし」では、夫の死の瞬間を写さず、死体の姿も写さず、現実に起こった死を現実として受け止めさせない描き方をする。
「エンジェル」は、母の死の瞬間も、夫の首吊り死体も明示し、華やかな空想世界に死という現実をこれでもかと投げ込んでくる。

あくまでリアリティにこだわった「まぼろし」と、作為的な華やかさにこだわった「エンジェル」。
その実、物語のテーマは「まぽろし」が妄想あるいは幻想であり、「エンジェル」は現実なのだ。
現実的に空想を描いた「まぼろし」と空想的に現実を描いた「エンジェル」は、対照とか鏡像とか表裏一体といった言葉で結びつけるのがあっている。
(だが、それは逆にオゾン自身が彼の文句なしの最高傑作「まぼろし」のイメージにいまだとり憑かれているということなのかもしれないし、このように考えること自体、オゾンファンの私がいつまでも「まぼろし」を引きずっているということなのかもしれない)

****【「エンジェル」における空想の敗北】****
あるいは、あえて古臭いスタイルで映画を撮ったオゾンは、このような古臭い表現方法ばかりの映画を見て、泣き笑い喜び想像力をたくましくしてきた古き良き時代に対する挽歌を歌っていたのかもしれない。
古いスタイルで夢見る女の子のサクセスストーリー、ハッピーエンドのラブストーリーを撮るように見せかけ、その実そうした表現方法による夢の世界も、現実の前にはなす術もない。
オゾンは1967年生まれの41歳。多感なハイティーンのころは80年代半ば、あるいは本気で映像目指してガツガツしていた時期は90年代初期。
古き良き時代の映画とはリアルタイムで付き合っていたわけではないが、パリでさんざんリバイバル上映されていたであろうその頃の映画を見まくっていたのかもしれない。

華やかさ、艶やかさを好んだエンジェルは、画家である夫に、光あふれるアトリエ(夫は本当は北向きのアトリエの方が好みだったのだが)をプレゼントするが、夫は結婚前も後も一貫して暗色を貴重とした沈んだトーンの絵を描き続けた。
しかし、死後に名声を博したのは夫の絵で、対照的にエンジェルの華やかな小説は人々から忘れられていくことになる。
ダークトーンの絵を描き、退廃的だが現実をよく観ている夫は、ひょっとして「まぼろし」を撮っていたころのオゾンの分身なのかもしれない。

スクリーンに映し出される、オゾンが創作しためくるめく映画世界は、その見た目とは裏腹に、物語が進むにつれ崩壊していく。
決定的となったのは、エンジェルがかつて憧れたお屋敷のお嬢さんアンジェリカと出会うシーン。
しかもそのアンジェリカが夫の浮気相手であったという事実。夢の世界の人物と変わらなかったパラダイス屋敷のアンジェリカが現実の存在として彼女の人生に介入してくる。
その直後、彼女が思い出から締め出していた忌まわしき過去である、「母の守り通した食料品店」の脇を馬車で通り過ぎる。
イマジネーションで現実の侵入を徹底的にガードしてきたエンジェルの空想世界という城は、「現実」によって壁も城門も叩き壊され、エンジェルは現実の前に無防備となっていた。
そして、最後の最後には自身の死という、最悪の現実により彼女の空想世界は消滅するのである。

文学に憧れ、エンジェルの才能に惚れ、彼女の秘書となった女性と、同じくエンジェルの才能を認め、彼女を文壇にデビューさせた出版社の男性が二人さびしく、エンジェルの墓の前にたたずむ。
映画のラストで二人の交わす会話が、この作品を象徴しているように感じた。
うろ覚えだが、こんな台詞だ。

出版人「君も書いてみろ。」
秘書「私には書けないわ」
出版人「エンジェルの人生を書けばいい。君はすべて見てきたんだから」
秘書「どっちの人生を書けばいいの? 本当の人生? 彼女が夢見た人生?」

空想と現実のせめぎあいは、オゾンという作家が映画に対して攻撃的になっている証であろう。
映画自体、リアリティとファンタジーのバランスの上になりたつものだから。

********
↓面白かったらクリックしてね
人気blogランキング

自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 潜水服は蝶の夢を見る [監督... | トップ | 大いなる陰謀 [監督:ロバ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ぜひ (sakurai)
2008-04-21 15:57:39
奥様にお目にかかりたいです。
私もやってやれないこともなさそうですが、いかんせん迫力がない。
あの見下したような迫力は、シャーロット・ランブリングですなあ。
またまた「愛の嵐」が見たくなりました。
「マックス・モン・アムール」も捨てがたいですわ。

オゾンは、役者は引きずりますが、中身は、自分を引きずらないような気がします。
常に自分を凌駕しているような・・・。
私は、これの前の「僕を葬る」が、好きです。
返信する
コメントどうもです (しん)
2008-05-06 20:17:40
>sakuraiさま

うちの妻も別段、迫力はありません。てか、シャーロット姐さんほどの迫力あったら怖くて結婚できません

「僕を葬る」観たいなあ
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映評 2006~2008」カテゴリの最新記事