個人的評価:■■■■□□ (最低:■□□□□□ ~ 最高:■■■■■■)
最近、映画の国籍が難しい。ウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はハリウッドスターを使った英語作品でアメリカで撮影されたが、製作会社はフランスと香港の会社なので、フランス・香港合作となる。
フランス語作品である「潜水服は蝶の夢を見る」はアメリカ・フランス合作であるが、イニシアチブはアメリカが握っている気がする。
製作会社として最初にクレジットされるのは、ケネディ・マーシャルプロダクションで、そこのトップであるキャスリーン・ケネディがプロデューサとしてクレジットされている。彼女はスピルバーグの莫逆の友で、スピ作品の多くをプロデュースしてきた。
撮影監督はヤヌス・カミンスキーで、シンドラー以降の全スピルバーグ作品のカメラを務めている人だが、一方でスピルバーグ以外の作品で名前を見ない気がする。なのですっかりスピ専属だと思っていたが、今回非スピ作品でカメラを務め、アカデミー候補のオマケまでついた。スピ以外でも仕事するのか~と思ったものの、製作がキャスリーン・ケネディとなるとあまり意外性はない。
監督のジュリアン・シュナーベルという人については、あまり詳しく知らなかった。
以前にシュナーベル監督の「夜になる前に」という作品を観た事があるが、あれはハビエル・バルデム主演の全編スペイン語の映画だった。だからアメリカの監督という印象が薄いのだが、シュナーベルはアメリカ生まれのアメリカ育ち、生粋のアメリカ人だ。
公式HPの受け売りだが、かつてはNYでモダンポップアートの旗手として活躍していたらしい。
本作の最初の脚本は「戦場のピアニスト」のロン・ハーウッドが英語で書いたものだが、シュナーベルはジャン=ドーが何を感じ何を思っていたかを知るにはフランス語で撮らなきゃならん、と考え、フランス語に翻訳したという。
この辺り、芸術家っぽい考え方で好きだ。映画は何語であろうとも人を感動させることはできる。しかし本作では儲けようとか、人を感動させようとか、そういう欲を捨てて、シュナーベルという監督が自分の好奇心と創作意欲を満たすためにのみ作ったような印象を受ける。
最近は「硫黄島からの手紙」しかり、「バベル」しかり外国が舞台ならその国の言葉を使って描くのが好まれている。
だから「シルク」などいい映画なのに「なんで英語なんだよ」と、どうでもいいところに突っ込まれることが多くてかわいそうだが、それだけ観客の価値観も変わってきているということだろう。
そんなこんなで、本作はアメリカの芸術家とアメリカの映画人が作ったフランス語の映画という印象を強くする。
しかし製作プロダクションとしてフランスの制作会社もクレジットされているので、やはり米仏合作とすべきだろう。
ちなみにイギリスでは、製作国とか資本をどこが出したとか関係なく、イギリスが舞台でイギリスの映画人がかかわった映画なら、それはイギリス映画と呼ぼう、ということにしているそうだ。
「恋に落ちたシェイクスピア」はもちろん「007」も「ハリー・ポッター」もイギリスでは立派な「イギリス映画」である。(実際は全部アメリカ映画)
さて、この映画はシュナーベルのアーティスティックな才能と、ハリウッド映画界の技術的ノウハウとが高度に結びついた作品という印象が強い。
特に、前半部分の、ジャン=ドーの主観映像をメインにした展開では、改めてヤヌス・カミンスキーというカメラマンの類稀なる才能を見せ付けられ、単なる自伝の映画化では絶対こうはいかない、全身麻痺の人間の感覚を体感させるきわめて映画的な興奮を味わうことができる。
ゆらゆらとさまよう目線は、美人の介護士の胸元にすぐ目が行く。プレイボーイなんだな、ということがよくわかる。美人理学療法士のエロっちい舌の動きに目が釘付けになる様もよく描かれるのだが、その美人は食事を自分で飲み込むことができるように、舌の動かし方を教えているだけなのだ。
こんなカメラの動きを考えるカミンスキーの頭の中はどうなっているんだろう。
ストーリーとしては、心優しき健常者と、皮肉屋の障害者の意思のすれ違いがたっぷり描かれる。
電話の設置にきた技師たちが、全身麻痺の彼の姿をジョークにして介護士が不快感を露にしつつも、当の本人はそのギャグがけっこうウケてるなんてところも、気持ちのすれ違いをユーモアにくるんで表現しており面白い。
また別のシーンでは介護士は、瞬きで「死にたい」と訴えるジャン=ドーにマジギレするなど、彼を健常者とかわらない一個の人間として接しているのもよい。
難病映画にありがちな哀れみのお涙誘いに走らない姿勢がよい。
「セカチュー」とか「いま会いにゆきます」とかは、感情移入の対象は死にゆく人ではなく、それを看取る人であった。愛する人間を失うなんて、なんて悲しいんだろう・・・と思わせて、そこに観るものの過去の苦い思い出や悲しい記憶を想起させて、泣かせようとする。過去へ向けた後ろ向きの感情誘導である。観賞した人間たちはしばし思い出に浸る。
しかし本作は、動けなくなり、衰弱し死にいく運命にある人間その人と、観客とを同一化させる。
まだ誰も経験したことの無い、しかしやがて確実に訪れる「自らの死」を覚悟させる。未来志向の前向き感情誘導である。
観賞した人間たちはもしものために保険入っとかなきゃ・・・とか未来のもしもに備えようとする。
そんなこんなで、自分はいかに生きてきたかではなく、これからいかに生きていいくか・・・と思わせる、まさにヒューマニズムの映画である。
ただし、客観視点がメインとなる後半は、主観視点の前半よりやや、驚きが後退し、映像の魅力が半減し、やや冗長な感じも否めない。
後半は現実と回想とイマジネーションの境目を曖昧にして、常に白昼夢の中にいる様な全身麻痺の人間の日々を映像化しているところが興味深いのだが、肝心の、自伝執筆の気の遠くなりそうな苦労の日々を適当にはしょっているので、「いかに生きるか」という判りやすいテーマがぼやけてしまう。
全身麻痺の人間の精神世界を作り上げようという芸術家的野心が強すぎた気がする。しかしこの他では味わえない、感覚は経験しといて損は無い。
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最近、映画の国籍が難しい。ウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はハリウッドスターを使った英語作品でアメリカで撮影されたが、製作会社はフランスと香港の会社なので、フランス・香港合作となる。
フランス語作品である「潜水服は蝶の夢を見る」はアメリカ・フランス合作であるが、イニシアチブはアメリカが握っている気がする。
製作会社として最初にクレジットされるのは、ケネディ・マーシャルプロダクションで、そこのトップであるキャスリーン・ケネディがプロデューサとしてクレジットされている。彼女はスピルバーグの莫逆の友で、スピ作品の多くをプロデュースしてきた。
撮影監督はヤヌス・カミンスキーで、シンドラー以降の全スピルバーグ作品のカメラを務めている人だが、一方でスピルバーグ以外の作品で名前を見ない気がする。なのですっかりスピ専属だと思っていたが、今回非スピ作品でカメラを務め、アカデミー候補のオマケまでついた。スピ以外でも仕事するのか~と思ったものの、製作がキャスリーン・ケネディとなるとあまり意外性はない。
監督のジュリアン・シュナーベルという人については、あまり詳しく知らなかった。
以前にシュナーベル監督の「夜になる前に」という作品を観た事があるが、あれはハビエル・バルデム主演の全編スペイン語の映画だった。だからアメリカの監督という印象が薄いのだが、シュナーベルはアメリカ生まれのアメリカ育ち、生粋のアメリカ人だ。
公式HPの受け売りだが、かつてはNYでモダンポップアートの旗手として活躍していたらしい。
本作の最初の脚本は「戦場のピアニスト」のロン・ハーウッドが英語で書いたものだが、シュナーベルはジャン=ドーが何を感じ何を思っていたかを知るにはフランス語で撮らなきゃならん、と考え、フランス語に翻訳したという。
この辺り、芸術家っぽい考え方で好きだ。映画は何語であろうとも人を感動させることはできる。しかし本作では儲けようとか、人を感動させようとか、そういう欲を捨てて、シュナーベルという監督が自分の好奇心と創作意欲を満たすためにのみ作ったような印象を受ける。
最近は「硫黄島からの手紙」しかり、「バベル」しかり外国が舞台ならその国の言葉を使って描くのが好まれている。
だから「シルク」などいい映画なのに「なんで英語なんだよ」と、どうでもいいところに突っ込まれることが多くてかわいそうだが、それだけ観客の価値観も変わってきているということだろう。
そんなこんなで、本作はアメリカの芸術家とアメリカの映画人が作ったフランス語の映画という印象を強くする。
しかし製作プロダクションとしてフランスの制作会社もクレジットされているので、やはり米仏合作とすべきだろう。
ちなみにイギリスでは、製作国とか資本をどこが出したとか関係なく、イギリスが舞台でイギリスの映画人がかかわった映画なら、それはイギリス映画と呼ぼう、ということにしているそうだ。
「恋に落ちたシェイクスピア」はもちろん「007」も「ハリー・ポッター」もイギリスでは立派な「イギリス映画」である。(実際は全部アメリカ映画)
さて、この映画はシュナーベルのアーティスティックな才能と、ハリウッド映画界の技術的ノウハウとが高度に結びついた作品という印象が強い。
特に、前半部分の、ジャン=ドーの主観映像をメインにした展開では、改めてヤヌス・カミンスキーというカメラマンの類稀なる才能を見せ付けられ、単なる自伝の映画化では絶対こうはいかない、全身麻痺の人間の感覚を体感させるきわめて映画的な興奮を味わうことができる。
ゆらゆらとさまよう目線は、美人の介護士の胸元にすぐ目が行く。プレイボーイなんだな、ということがよくわかる。美人理学療法士のエロっちい舌の動きに目が釘付けになる様もよく描かれるのだが、その美人は食事を自分で飲み込むことができるように、舌の動かし方を教えているだけなのだ。
こんなカメラの動きを考えるカミンスキーの頭の中はどうなっているんだろう。
ストーリーとしては、心優しき健常者と、皮肉屋の障害者の意思のすれ違いがたっぷり描かれる。
電話の設置にきた技師たちが、全身麻痺の彼の姿をジョークにして介護士が不快感を露にしつつも、当の本人はそのギャグがけっこうウケてるなんてところも、気持ちのすれ違いをユーモアにくるんで表現しており面白い。
また別のシーンでは介護士は、瞬きで「死にたい」と訴えるジャン=ドーにマジギレするなど、彼を健常者とかわらない一個の人間として接しているのもよい。
難病映画にありがちな哀れみのお涙誘いに走らない姿勢がよい。
「セカチュー」とか「いま会いにゆきます」とかは、感情移入の対象は死にゆく人ではなく、それを看取る人であった。愛する人間を失うなんて、なんて悲しいんだろう・・・と思わせて、そこに観るものの過去の苦い思い出や悲しい記憶を想起させて、泣かせようとする。過去へ向けた後ろ向きの感情誘導である。観賞した人間たちはしばし思い出に浸る。
しかし本作は、動けなくなり、衰弱し死にいく運命にある人間その人と、観客とを同一化させる。
まだ誰も経験したことの無い、しかしやがて確実に訪れる「自らの死」を覚悟させる。未来志向の前向き感情誘導である。
観賞した人間たちはもしものために保険入っとかなきゃ・・・とか未来のもしもに備えようとする。
そんなこんなで、自分はいかに生きてきたかではなく、これからいかに生きていいくか・・・と思わせる、まさにヒューマニズムの映画である。
ただし、客観視点がメインとなる後半は、主観視点の前半よりやや、驚きが後退し、映像の魅力が半減し、やや冗長な感じも否めない。
後半は現実と回想とイマジネーションの境目を曖昧にして、常に白昼夢の中にいる様な全身麻痺の人間の日々を映像化しているところが興味深いのだが、肝心の、自伝執筆の気の遠くなりそうな苦労の日々を適当にはしょっているので、「いかに生きるか」という判りやすいテーマがぼやけてしまう。
全身麻痺の人間の精神世界を作り上げようという芸術家的野心が強すぎた気がする。しかしこの他では味わえない、感覚は経験しといて損は無い。
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でも、全編この撮り方でやられたらきついな、とも。
言われてみれば、フランスものにしてはちょっと違和感があったなあと感じたのですが、その辺が要因だったのでしょうかね。
はい、私も前半の映像のすごさはみとめつつも、全部こうだったらどうしようとちょっと不安になったのも事実です。
しかしいっそイマジネーション部分のぞいて全部主観にしちゃったら、もっともっと伝説的映画になったかも・・・と思わなくもないですが
それで言いたいことが伝わるかは難しいですね