英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

高教研2016を終えて

2016-01-13 18:44:00 | 日記
新年になりました。今年はどんな1年になるのか。楽しみです。去年はとにかく忙しい1年でした。担任、部活、授業。日本の教員の悪い典型のような忙しさでした。今年は余裕を持って仕事に取り組めるといいなぁと思いながら。


さて、今年も高教研に参加して思ったこと。長くなります。

1日目の全体講演はアクティブラーニングについて。アクティブラーニングは最近聞かない日がないくらいのホットなワードですが、それを各教科を通して取り組むことでキャリア教育の役割も担える。こうした取り組みを大学だけでなく、初等、中等教育でも導入することの重要性について述べられていました。端的にいえば、大学でやっても遅すぎる、ということか。全くその通りだと思います。まずは講義形式に+αでアクティブラーニングを取り入れることが重要だというのはその通りだと思います。

さて、アクティブラーニングに関して(講演の内容とは直接関係ありませんが)1つだけ気になることがあります。アクティブラーニングに(定義はあっても)正しいやり方があるわけではないので、何が正しいだの間違っているだのと述べることはできませんが、私はアクティブラーニングが効果的に用いられている授業とそうではない授業があると思っています。先日、ある授業を見て思ったことでもあるのですが、例えば社会科で生徒に何かを議論させるとすると、まず背景となる知識(インプット)をどれだけ与えるかが大事だと思います。ここで浅い知識だけをもとに何か議論を始めても、議論が深まらず、浅い意見の応酬に終始してしまいます。もちろん議論の後に「実はこんな知識があってね」と後出しでも悪くはありませんが、やはりせっかく議論させるときに判断の材料となる知識はある程度議論の前に与えておきたいものです。それらの知識を自分の意見の中に用いることで知識の定着を促すばかりでなく、自分の意見がさらに深まっていく(よって説得力のあるものになる)のではないでしょうか。このような形でアクティブラーニングが用いられているとすれば、講義型の授業と比較して成績が下がるとは思えません。もし成績が下がっているとすれば、それは成績を測る試験の妥当性の問題か、あるいはアクティブラーニングを効果的に用いることができていないことが問題だと考えてよいと思っていますが果たして。


そして、高教研の2日目。東進ハイスクールの安河内先生の講演でした。安河内先生は著名な予備校講師ですが、「予備校講師なんて受験テクニック教えてるだけでしょ」なんて斜めから見ていた私は、その後意見を180°変えることになります。非常にテンポよく、エネルギッシュで、かつおもしろいアクティビティの数々は、授業という名のエンターテイメントで、英語を学ぶことが「楽しい」と思えると同時に、英語力が間違いなくつく授業だと思いました。何よりこれを予備校でやっているというのがすごいなぁと思いました。

なるほど、この2日間を通して感じたのは、「どう教えるか」ということに関してはすでにやるべきことは見えてきた、ということです。と同時に、課題となるのは「何を教えるのか」であると感じました。「何を教えるのかって教科書に書いてあることに決まってるじゃん」「学習指導要領に沿って教えるのが俺たちの仕事じゃん」というのはどちらも正解といえば正解なのですが、それと私の言う「何を教えるのか」という問題は重なっている部分と、重なっていない部分があります。つまり、もちろん教科書は学習指導要領に沿っているので、教科書で教えることは大事ですが、学習指導要領のすべてが果たして教科書に反映されているかについては不十分ではないか。また、学習指導要領に述べられていることが教育内容構成に反映されるべきものではあるものの、それを具体化するのは教員の仕事だろう。つまり、学習指導要領に基づいて、教員は「何を教えるのか」を構築するわけですが、それが果たしてどれだけ研修などで共有されているのかに疑問が残ります。各々が自分の知識や経験に基づいて教育内容構成をやっているうちは、どれだけ「どう教えるのか」が蓄積されていっても、教育の本当の意味での質は向上しないのではないか。もちろん、教員各々が指導している生徒のことを一番わかっているのだから、「何を教えるのか」が完全に統一されることはないだろうと思います。そうではなくて、もっとコアの部分で、意識が統一されるべかかではないのか、ということです。

話が抽象的なのでわかりにくいでしょう。具体的に例を挙げながら話を進めていきます。「何を教えるのか」のコアの部分とは何か。例えば、Celce-Murcia&Larsen-Freeman(1999)によれば、文法指導において重要な要素は、形式、意味、使用の3つです。形式と意味についてはある程度言わずもがな、といったところですが、使用については果たしてどれだけ指導されているのか疑問です。ここでいう使用とは、学習指導要領でいうところの「場面」というやつです。この場面に留意した文法指導の重要性はこのブログの中でも何度も取り上げてきました。例えばhad betterをただ「命令的なニュアンスがある」とか教えても、果たしてそれを使えるようになるだろうか。それであればshouldやhad betterの実際に使われる場面はどのようなものかを提示したほうがわかりやすいだろう。というような類いの話です。

もうひとつ、使用(場面)の重要性に関する例を挙げます。2つめに取り上げたいのは時制です。これについて説明する前に、岡田(2012)による以下の英語教育への批判を引用しておきます。

「英語教育の世界では単文主義と呼ばれる指導法が多用されます。例えばある構文を教える時には1つの文を提示するだけで、それがどのような場面でどのような意図で使われるかを示す文脈を添えることもなければ、競合する他の構文と比較してその構文の意味を際立たせることもありません。」「場面や文脈を考慮しないで、構文の本質的な意味を把握しようとしてもうまくいきません。」(p.115)

全くその通りだと思います。さて、話は時制に戻ります。実際に会話をする、あるいは手紙を書く時に、大切なのは文脈の中に位置づけて時制(や相)を考えることです。単文だけでは時制の本当の使い方は理解できません。しかし、ほとんどの教科書や問題集ではこの単文主義を採用しています。私の知るかぎりでは、使用場面を取り入れて単文ではなく文脈に位置づけて時制を理解させようとしているものに例えばAzar(2009)がありますが、他にはあまりよいものはないと思います。

以上、使用に留意した文法指導の重要性について述べてきました。しかし、少し矛盾することを言いますが、「常に使用場面を意識させろ」という極論に結びつけてほしくないことを強調しておきたいと思います。先ほども述べたように、文法指導には形式、意味、使用の3つがあります。例えば受動態を例に説明します。形式は「be +過去分詞」です。これを理解させる段階で、果たして文脈が必要でしょうか。それよりは能動態との違いをざっと説明して意味を理解させ、能動態から受動態に言い換える練習をしたほうがよっぽど形式を理解できるのではないでしょうか。能動態から受動態への書き換えは、最近は非常に評判が悪く、「そんなことをやらせたって受動態を理解させることはできない」と批判されがちですが、それはそれだけで終わってしまうからであって、形式を理解させるということでいえばもっとも手っ取り早い方法だと思います。この能動態から受動態は、ペアで確認させる(片方が能動態を言ってそれを受動態に直す)と、クイズみたいにどのレベルの子でも楽しむことができると思います。慣れてきたら、日本語から直接英語に直す作業をさせると意味も意識させることができます。そして、受動態の使用場面を意識した文脈を用いた指導に入るとよいでしょう。使用場面を意識した受動態の指導についてはまた別の機会に考察することにして、とりあえず「常に単文ではいかんのだ」という話ではないことを理解していただきたいと思います。特に形式を教える時には、単文で形式にフォーカスすることが大事だということです。

さて、「何を教えるのか」について文法指導では形式、意味、使用を指導することが大事だという話をしました。また、この「何を教えるのか」については文法指導だけでなく、リーディング、リスニング、ライティング、そしてスピーキング指導において何を教えるのかもさらに議論しなければならないとは思います。しかし、これもまた別の機会に。考えたい問題は山積みですが、今は冬休み明けに向けて、また準備をしなければなりません。2ヶ月くらい休みだったらなぁ・・・。


【引用・参考文献】
Azar, Betty.(2009). "Understanding and Using English Grammar, 4th Edition (STUDENT BOOK+CD+ ANSWER KEY)". Pearson.
Celece-Murcia, M,&Larsen-Freeman, D.(1999). The Grammer Book An ESL/EFL Teacher's Course 2nd edition. Heinle&Heinle.
岡田伸夫.(2012).「学習英文法の内容と指導ー語と文法と談話」.大津由紀雄編著.『学習英文法を見直したい』研究社, pp.106-119.

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