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英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

書評: アントラム栢木利美 著『話すための英熟語』

2015-01-01 10:21:00 | 日記
authenticではなくてもよい教材はたくさんあります。ということで書評。最近読んだ本の中から1冊。『話すための英熟語』(IBCパブリッシング)という本です。これは生徒だけでなく、教員が読んでもおもしろい内容です。英熟語の本ですが、受験勉強ではあまり出てこないが、日常会話でよく用いられている表現が満載です。本屋で立ち読みして、「こういうのを教えたいんだよなぁ」と思い購入しましたが、よく読んでいくと私も知らない表現がちらほら。

この手の口語表現の宝庫としてはNHKのラジオ英会話に勝るものはないと思ってきましたが、この本のクオリティはラジオ英会話に勝るとも劣らないと思います。CDはわりと速めなので、英検準2級以上のレベルかな、と思います。

CDがついているので、何度もCDを聴いて声に出して読むことですぐに口から出てくるようになれば、後は実際に使ってみるだけです。実際に使う機会がない人は使う場面を想像するだけでもよいトレーニングになります。英語はイメトレも大事なんですよね。

2015年始まりの言葉

2015-01-01 00:42:16 | 日記
書いてるうちに新年になりました。2014年は4月から新たな学校で、色々なストレスもありましたが、終わってみれば新しい生活にも慣れ、楽しい1年でした。ざっくりと振り返ります。とはいっても引っ越した以外、特筆すべきことはありませんが。

今年は1年生と2年生のコミュニケーション英語を指導しました。1年生は始めから私の英語なのでかなり手応えがありました。2年生も多くの生徒は早くから私のやり方に順応してくれていましたが、7月の授業評価では全員がよい評価をくれたわけではありませんでした。

思えば大学時代、教育方法学を学んでいた私が一番記憶している、ある教授の言葉に次のようなものがあります。

「学問は本来、驚きと発見に満ちた楽しいものでなければならない。しかし現実の教育現場ではそうなっていない。それは教育という名を借りた別のことが行われているからだ。」

私は今年までいまいちこの言葉がしっくりきていませんでした。私は「学問は始めはつまらない事実の羅列を覚える作業に終始しなければならない。その苦行を越えた所に楽しみがある。」と。まずは楽しくないことをやってみることで、わかってきたら楽しくなるのだ、とでもいいましょうか。自分もそんな感じだったよなぁと思いながら。

しかし、考え方がかなり変わってきました。それは今まで3つの学校を教えてきて、あることに気づいたからです。ほとんどすべての生徒が最初は学校に希望を持って入学してくるのだ、と。まぁ高校は違う場合もあるのですが。そしてたとえ自分はどんなに勉強ができないと思っている生徒でも、本当は知りたいという欲求を持っている、ということです。

しかし、その欲求は学校(教師)によって崩されていくことも事実なのです。それを生徒のせいにしていた自分に気づいたのです。自分の授業のいたらなさを生徒のやる気のせいにして、自分を守ってきました。まずは楽しくないことをやっていくことで、楽しさがわかるんだから、やりなさい、と。しかし、それはやはり本来の教育の姿ではないのだと思うようになったのです。もちろん、やらされて楽しさがわかった人も多いと思いますし、自分もその1人でした。

どんな生徒にもなるほど、と思わせる授業がしたい。それは最近流行りの英語の授業ではないかもしれない。でもすべての生徒の学ぶ意欲を削がないで、その前提において活気のある授業がしたい。積極的に英語を話そうとする子が評価される授業。あまり前に出るタイプではないから発言はできなくても、自分の意見がしっかり英語で表現できる子が評価される授業。明示的文法知識を学ぶのが好きな文法マニアの子が評価される授業。リーディングが好きで、黙々と読解をしていくのが好きな子が評価される授業。etc...すべての子のニーズを授業で叶えてあげたいのです。どうやらそれが無理だという論調が強い今日この頃。コミュニケーションは話すことだけでは成し遂げられないと私は思うのです。話すことや書くことだけでなく、読むこと(著者の書いている内容を読み取ること)、聴くこと(話し手の言いたいことを聞き取ること)もすべて含めてコミュニケーションであるべきです。そして生徒が英語に求めることを「こう考えなさい」限定してしまうことは教育ではないと思います。もちろん、現時点で私はこの域(すべての生徒のニーズに合った授業を行うこと)には達していません。


で、先日、冬休みに入る前に取った2回目の授業評価アンケートへ。嬉しかったのは悪い評価をつける子がいなくなったことです。もちろん心の中では思っているけど書けない子もいるはずなので鵜呑みにはしませんが。少しは理想の授業に近づけたかな、と思います。

まだ自分には足りないことについて。一番は「何を教えるのか」をもっと追究することです。教科書や参考書に書かれていることを鵜呑みにすることなく、もう一度教育内容自体を吟味したいのです。漠然とですが、案はあるので2015年実行していきたいと思います。

authenticな教材は何がすごい?

2014-12-31 12:25:00 | 日記
最近やたらと見かける「authenticな教材」という言葉。日本語の文献でも見られるようになりましたが、海外の文献ではけっこう前からわりと目にしていました。この「authenticな教材」とは何を指すのかを私の知るかぎりにおいて表現するならば「言語教育のために作られたものでない、本物のニュースやテレビ番組、映画、新聞や本やインターネットなどから得られた、ネイティブスピーカーによるネイティブスピーカーのための素材」のこと。らしい。いや、正確にはこの言葉が指すものは研究者によって若干異なるような気がします。しかし、ある程度的を射た定義ではあるでしょう。さて、このauthenticな教材を使って指導することがなぜ重要なのか、そんな疑問を持った今日この頃。たまたま眺めていた文献で若干説明がされていましたので引用しておきます。

「そのコンテンツが内容的にも言語的にも文化的にも非常に豊かであるため、教師も生徒も英語と知識と思考をフル稼働させてテクストに取り組むことになり、高い次元の学習効果と達成感が得られ」、「現実社会で生産され消費される『本物』の迫力が知的興味を刺激し、学習意欲をかき立てるという情緒的側面」もあるから(以上渡部など(2011;21)より)

これを読んで「なるほど、その通り!」と思えない私はauthenticな教員ではないのかもしれません。ただ、なんとなくすぐには納得できるものではありません。authenticな教材とauthenticでない教材はそれぞれの長所と短所を踏まえて有機的に取り入れていくものではないのか、と思います。authenticな教材の長所はいうまでもなく、本物の場面に位置づけられた、本物の表現が学べることでしょう。そして、それ故に特に初級や中級レベルの生徒に合ったとっつきやすいものを選ぶのはかなりの困難があるのが短所でしょう。それにたいして、authenticでない教材の長所は、学習させたい項目に重点を当てることが容易であることが挙げられるでしょう(そのために内容構成されている場合が多いわけです)。一方短所は、学習者のレベルに合わせるために自然な言語使用でなかったり、不自然な表現を使わなければならないことが多々あることでしょう(ピーターセン(2014)による指摘は参考になります)。ではどちらが優れているのか、といわれるとケース・バイ・ケースだと思います。両方の長所を生かして、短所を補うのがベターだと思います。

そもそもauthenticな教材を推奨する立場に対しては「じゃあauthenticじゃない教材は生徒の知的興味を刺激しないの?内容的に優れたものはないってこと?」という疑問が拭えません。

ただし、こういった狭い意味でのauthenticに対して、もっと広い意味でこの語を説明している文献もあった(はずなのにどの文献だったか覚えていない...)ので、もう少し調べてみたいと思います。


【参考文献】
マーク・ピーターセン.(2014).『日本人の英語はなぜ間違うのか?』.集英社インターナショナル.
渡部良典・池田真・和泉伸一.(2011).『CLIL 内容言語統合型学習 上智大学外国語教育の新たなる挑戦 第1巻 原理と方法』.上智大学出版.

『ジーニアス英和辞典 (第5版)』を読む

2014-12-28 17:23:00 | 日記
英和辞典や英英辞典を読むのが好きです。この楽しみを知ったのは高校生の時。当時はまだ電子辞書など誰も持っていなかったので、紙の辞書を机に上げて授業を受けていました(ちなみに今や紙の辞書を机に上げている生徒はほとんどいません!)。当時は学校推薦の辞書というのがあり、私もそれを使っていたのですが、いまいち使いにくかったので、もう1冊、本屋で自分の納得のいく辞書を何日も通った末に買いました。その辞書は今でも大切に持っています。

さて、その時に気づいたのが、同じ語を調べても、辞書によって記述が様々であることです。それが面白くて、辞書を見比べるのが好きになりました。また、辞書によって語法などの情報が豊富で、別の語を調べていたのにたまたま目についた語法を読んで知識を膨らませたものです。その癖が今も抜けず、いろいろな辞書を比べながら、どれがよりわかりやすいか、正確にその語の本質を捉えているか、などを考えています。

最近発売された中でかなりお気に入りにしているのは、時々本ブログでも引用させていただいている『オーレックス英和辞典(第2版)』です。他の辞書にはない、「プラネットボード」というコラムは参考になります。

そして先日、いよいよ『ジーニアス英和辞典』の第5版が発売されました。私は実は、第3版までのジーニアスはあまり好きではありませんでした。「嫌いだった」といっても言い過ぎではないくらい。正直あまり正確とは思えない語法や例文が気になっていたのです。第4版でかなり力を入れて改善したようですが、残念ながら第4版も私のお気に入りの辞書にはなりませんでした。ただ、かなりよくなったな、と生意気にも上から目線で眺めてはいましたし、いろいろな辞書で調べる時に「ジーニアス第4版ではどう書いてあるかな?」と気にする存在にはなりました。

さてタイトルにもなっている『ジーニアス英和辞典(第5版)』についてやっと述べる時がきました。私はこの辞書を今までのジーニアスとは別物だと思っています。それくらい記述がよい意味で替わっています。まるで別の新しい辞書のように進化しています。

どこが優れているのか考える前に、私が辞書を選ぶ際のポイントを挙げておきます。

①記述の正確性
②語法解説の質

①については、辞書にも厳密に検討すると、記述が(現代の語法から見て)事実と解離していることがある、というのを意識する必要があると思います。そもそも、歴史的に見て正しいのか、現代の語法から見て正しいのか、どちらに重きを置くのかが問題なのですが、学習者のための辞書という視点に立つならば、現代の語法から見て明らかに容認されないものは排除されるべきではあるでしょう。また正確性に関しては「どこの国(や地域)の英語なら容認可能なの?」という疑問にも答えたいところです。例えば「want 動名詞」を容認可能とするのは、現代では限られた地域の人たちだという事実があります。最近はコーパスが発達してきたので、この辺のことはかなり正確に記述されるようになってきたようです。

次に②の語法解説について。ここで問題になるのは「誰に対する語法解説か」という視点によって、解説の内容は全く違ったものになる可能性がある、ということです。例えば、『英語教育』(2015年1月号)の柏野(2015)を見ると、その辺の苦労が垣間見れます。詳しくは原典を読んでいただきたいのですが、同じ語法を伝えるのでも「誰に向けられた記述か」や「限られたスペースでどの程度まで書くか」、そして「規範寄りの記述主義」の基本路線の中で容認性の揺れのある語法のとりあえずの「結論」は何なのか(この結論は読者が英語学習者である、という事実を踏まえての「結論」であることにも留意されたい)という難しさ、とでも要約できるでしょうか。この辺のバランスは各辞書によって特色があり、それが辞書を読むことのおもしろさでもあります。

つまるところ、私は教員として(あくまでも教員として、です)、その辞書が有益かどうかを判断は、上記の点(記述の正確性と語法解説の質)が生徒と教員の双方にとって有益であることだと思います。理想としてはこの2つが一致していることが望ましいのですが、実際には異なることが多いと思います。生徒、特に高校生にとっては知らない語句を調べて、簡単な解説や現代英語で用いられている暗記すべき例文、できればコロケーションの情報があればよいと思います。一方教員にとっては、もう少し踏み込んだところまで知りたい(から辞書をひく)わけです(例えば、日本語では同じ語句のニュアンスの違いはあるのか?みたいなこと)。ジーニアスは第3版までは、正直無駄に多い語法解説と怪しい例文の数々に若干生徒も教員もうんざりしたものですが、第4版からの改革は第5版でさらに大きな進化を遂げたといえるのではないでしょうか。

関係代名詞のthatは人にも使えるのか

2014-12-22 22:05:00 | 日記
関係代名詞のthatは「先行詞が人にも物にも使える」と教えられています。果たして本当に「人にも使える」のでしょうか。

なんていうと、私の結論は「人にはthatは避けた方がよい」などと結論づけられそうになるのですが、私の結論は従来どおりの「thatは人にも使える」というものです。

ではなぜこんな当たり前の話題を改めて持ち出したのかというと、最近の文法について書かれた本の中に「先行詞が人の時のthatはネイティブスピーカーは嫌がるので、thatの『人にも使える』という記述は改めた方がよい。『物や動物には使える』という記述に改めるべきだ」という旨の記述を見つけたからです。こういうセンセーショナルな内容は確かにまったく裏付けがないわけではないだけに、余計たちが悪いのですが、結論のあり方がいささか早計だと思うのです。先ほども述べたように私の結論はthatでも、人の先行詞を受けることができます。特に会話ではthatは人でもかなり積極的に用いられます。ただし、フォーマルな場面ではwhoを使う方がよいでしょう。もう少し詳しく見ていきます。

どんな場面でどの関係代名詞が用いられているのか、詳しく考察しているのはBiber(1999;pp.608-630)でしょう。Biberによれば、会話でもっとも使われる関係代名詞はthatです(ただしこの数には物を先行詞にとるものも含まれています)。そこで会話の中で、先行詞に人をとる場合にthatが使われている割合を見てみると、30~40%です。ちなみにwhoが使われている割合は40~50%なので、whoの方が会話でも若干用いられることがわかります。しかし、その差は大きくはありません。ただし、ニュースや学術的な文献では、thatは5%以下にまで激減します。また、関係代名詞が目的格で使われた場合は、ゼロ関係詞(あるいは関係詞の省略)が80~90%と圧倒的で、thatは5~10%程度です。

人が先行詞の時のthatは、物が先行詞のthatよりは頻繁に使われないことは確かですが、会話ではかなり積極的に用いられます。よって特に人が先行詞の場合にthatは使えない、と結論づけるまでには至らないでしょう。


【参考文献】
Biber Douglas et al.(1999). Longman grammer of spoken and written English. Longman.