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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

仏舎利恭迎式

2005年05月23日 09時19分06秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

昭和19年5月29日午後1時から日比谷公会堂で、盛大な恭迎式が執行はれた。主催者のテーモンビルマ国大使、桜井兵五郎氏をはじめ青木大東亜相、岡部文相小泉厚相等も出席、全国各地寺院僧侶、信徒一万名が列席、テーモン大使寄遷の辞を述べた後潅水供養を行い、仏舎利は大使から桜井氏に寄遷,更に各宗代表に伝達されて式は終わった。」 以上が当時の国際画報に掲載された内容である。プログの写真はその時掲載されたものである。この時仏舎利が寄遷された先は、前のプログで書いた通り父が建築する境内50万坪の金沢市郊外の白雲楼の上の父個人の寺大東亜寺現在の康楽寺、鶴見総持寺、東本願寺,高野山の四箇所である。 しかし鶴見総持寺では昭和44年頃不審火で宝物殿が焼けたとあり、その時仏舎利が焼失した可能性が高い。東本願寺は信徒の反乱により管主が追い出されると云う不祥事が延々と続き、仏舎利の行方は分からない。 高野山も揉め事が多いようで、ビルマ渡来の仏舎利の行方は分からない。一方大東亜寺即ち康楽寺にいたっては、江戸村を作って見世物として利用したが、仏舎利の行方は分からない。日本観光を倒産さでた桜井能唯、辨谷貞造かがどこかに隠しているのであろう。 ビルマ人をはじめとして、アジア及び中国の日本に対しての不信は、こうゆう国際間の約束事を守らず、金のみに走っているからであろう。つまり歴史に対する認識の甘さである。


大東亜寺現康楽寺でのビルマからの仏舎利の遷渡式前夜の法要

2005年05月16日 09時59分32秒 | 康楽寺

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

この写真は康楽寺内の仏間でのビルマからの仏舎利遷渡式の前夜での事で、昭和19年12月10日頃のものである。この仏間にある仏壇は父が横山男爵家から買ったもので、父の所有物である。しかるに桜井能唯は自分の所有物として自宅に所有している。父の祭祀相続人でもない桜井能唯が所有している事は他人の所有物である祭祀装具を窃盗したことになり刑法で罰せられなければならない。(引用部分 加賀藩では、初代前田利家の頃から、すでに城内に細工所を設けて、武具一般の手工業的生産を活発に行っていました。ところが、前田家は日本一の外様大名である為、その動静は常に徳川幕府の監視下にあり、特に寛永八年(1631年)幕府は加賀藩に謀反の疑いありとして、当時の藩主前田利常を江戸に出府させる程でした。それ故、加賀藩は幕府を刺激しないためにも、武具製造の細工所を美術工芸品の製作所に改造する必要があったのです。そこで利常は、京都から五十嵐道甫(蒔絵師)などの名工を招き、工芸美術品の製作にあたらせました。5代藩主前田綱紀は、貞亨~元禄年間(1684~90年)にかけて京都や大阪から名工を招き細工所を拡大しました。こうした細工所の技術は、仏壇にも積極的に取り入れられたのです。現在、金沢仏壇として最も古いものは、金沢北袋町(壇風苑)の桜井能唯氏の所有する、前田家の家老横山家の仏壇が知られています(1700年頃作)。私たちは、この仏壇を通じて当時の工芸技術の粋を見て取ることが出来ます。)

私は9歳で父の斜め後ろに座っています。この法要はビルマからの要人と地元の代表を集めて行われた。
その翌日地元の一般の人々大東亜寺の老若男女の信者を集めて、父がその真ん中に一段高い式座の上に座って、法要がとり行われた。 私も父の座っているより斜め右前の方に座っていた。この大東亜寺については、読売報知昭和19年5月17日に「境内50万坪」と紹介されている。この建築の資金については昭和25年4月に金沢市に宗教博覧会が行われた際、父が北国毎日新聞紙上で、当時は康楽寺と称号が変わっていたが、麻布の邸宅と株券及び現金等3千万を充てる事を公表している。 この寺は父個人の寺として、父がその資産を寄付して寺の本殿を10数年かけて建築することとしている。現在の北国新聞は父が経営していた当時は
社屋が北国新聞の前にあった北陸毎日新聞が昭和15年に対等合併して出来たもので、父が会社の経営権を持っており、当時の北国新聞社の社長が東京の麻布の父の邸宅を訪ね、合併を打診して成立したものである。
現在の北国新聞の社長に手紙で問い合わせしたが、梨のつぶてであった。
私の父が大株主であるから、その関係で桜井能唯から口止めされた為であろう。
前のプログで書いたが、私の脳が破壊されたのは、金沢国立第一病院で当時の種村
院長の変わりに偽医師を使って私の脳を破壊したのであるが、その原因は合併した
北国新聞の父の名義株をその偽医師が白紙委任状と印鑑証明を引き換えに
辨谷栄がその偽医師に渡すと話をしているのを私がたまたま聴いたからである

 
話は元に戻るが康楽寺の資金計画を発表した時は,日本タイプライターの再建計画が認められ、三和銀行から莫大借り入れ金で旧勘定を処理、全国10数箇所の工場を処分、十分の一に減資して4000万に増資してスタートした時であった。父はその翌年の2月に亡くなったのである。 この時より父の会社の後継人争いが始まり、いろいろの事件がおこるのである。日本観光の社長になったのが父の異父妹の次男で、私の祖母の養子であった。日本タイプライターは日本観光の子会社であったが、当時は持ち株会社が禁止されており、父の株式は名義分散されていた。この時私は上記の様に株式名義
分散の手続きの話を聞いたことにより、高校時代の同級生より翻弄され、同学校の先生である偽医師により、鼻の手術を受ける羽目になり、廃人同様となった事は前に話した通りである。 父が戦後認知した他人の子供のほかにこの期に及んで、裁判認知によりひとりの男の子が現れた。この男が日本観光を破産に導く手立てをし、会社は平成8年熱海の起雲閣が三和銀行により破産申し立てられ倒産する。日本観光が経営する、会社は倒産する。 日本タイプライターの社長延命某はあらゆる策謀を企て、文字通り延命を図ろうとする。まず父の財産がすべて捕獲されている京橋税務署にその部下が放火、また父の戸籍のある能登の田舎の村役場を放火、村役場は全焼したといううことである。 何故村役場に放火したかは、私の戸籍が父の除籍簿の中にいらられ、父が認知をしていたからである。私が預けられた奥能登の戸籍上の父が私の戸籍訂正に応じないので、父が勝手にその除籍簿で認知をしたのである。 この放火犯人は捕まったが,全面的に白状になかったので、日本タイプライターの社長は罪を免れたが、社長は辞任して、渡辺忠雄氏等と能登に会社を設立、日本タイプライターを影より支配していた。 父の麻布の邸宅はその後吉田茂内閣当時ドイツ大使館に売却せられた。
父が康楽寺に寄付していたのに、そう易々と売却せられたのには理由がある。それは私が預けられた戸籍上の父親が、康楽寺の本殿建築計画は白紙撤回されたとして文書を偽造、父の個人の寺を宗教法人にしたのである。 これで父の麻布の邸宅は、堤康次郎氏の仲介により日本政府に売却、ドイツ大使館のなったのである。 
父の諸会社がすべた無くなったのは、私の預けられた戸籍上の二人の兄が係わり合いが大である。父の残した不動産等はすべて私の預けられた戸籍上の父親が管理にあたり、その死亡した昭和29年以降はその子供である戸籍上の兄達が管理していた。 
父の戸籍上のの子供達は何ら管理権がなかったのである。
堤康次郎氏は父の死亡ごは父の会社の後継人を父の命日に呼んで法要をしていたといううことであった。