プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

スケルツォ

1918-06-07 | 日本滞在記
1918年6月7日(旧暦5月25日)

 短編小説《Преступная страсть(許しがたい情熱)》を書き始めた。

 バイオリン・ソナタ。スケルツォが、つまらなく間の抜けたものになっていないだろうか? とにかく書くならいいものにしなければ。でなければまったく書かないほうがいい。昼はオセ・アイコ氏〔おそらく尾瀬敬止〕を訪ねた。バリモント〔コンスタンチン、1867~1942。銀の時代を代表する詩人〕から手紙を預かってきたのだ。彼はロシア語を話し、ロシアについての新聞を日本語とロシア語で発行している。バリモントに首ったけだ。まあ、さして面白くもなし。

 アリアドナ・ニコラーエヴナ〔知人のピアニスト〕、夫の名でルマノヴァは、最近、日本経由でアメリカに行き、あいも変わらず当地をひっかき回していったそうだ。マクス・シュミトホフと一緒に彼女に手紙を書いた頃、彼には想像できただろうか? 月日は流れ、あれから5年後、私が東京の大通りを二人の日本人ジャーナリストと歩きながら、「偉大なる窓」〔日本〕からアメリカに転がり出ていったアリアドナの話をすることになるなんて。マクスならきっとこう言っただろう。「そりゃすげえ!」と。アリアドナは当地のどこかで演奏したが、日本人に言わせると、指ではなく「顔」で弾いていたという。

 今朝、警官が訪ねてきて、船を降りた時と同様、またもや根ほり葉ほり質問された。職業は、目的は、出身は、父親の職業は、などなど。しかしこんなことを気にしても始まらない。みんな同様に扱われているのだから。警官が二十人ほどのリストを見せてくれた。アメリカ人もロシア人も、皆ホテルに泊まっている客たちだ。

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