スポーツクラブ考

 佐世保の事件のことを少しだけ考えました。報道を見ると、二人の間のコミュニケーションに上手く行かない部分があったようですね。

 私は常々、スポーツというのはコミュニケーションを円滑にする道具だと考えています。するにしても、見るにしても、人と人の間に身体言語を通じ意思の交流が発生します。音楽や芸術とともに、世代や性別、言語を越えた、コミュニケーションを成立させうる道具だと信じているのです。

 Jリーグの「百年構想」やJリーグ発足以降、盛んに言われる「総合スポーツクラブ」というやつも、根っこではこのコミュニケーションを期待しての活動ですよね。
 「百年構想」の理念を謳った文章にも、

私たちは、スポーツが人々を健康にし、また感動を与えたりするだけではなく、連帯感や協調性、いたわりや助け合いの精神を育み、青少年の育成やこれからの高齢化社会で重要な役割を果たすと考えています。

とあります。
 <芝生のピッチがあって、老若男女がスポーツクラブでともに汗を流せば、楽しく美しい社会が待っている…はず>。
 そうかぁ…?

 ならば総合スポーツクラブがあれば、今回の痛ましい事件は起きなかったのでしょうか? そんなことはないでしょう。二人はバスケットボールチームにも所属していた経験があるようですし、総合クラブではないにしろ、スポーツによる対人交流の経験はあったわけです。でも残念なことに、コミュニケーションに不全を来してしまいました。
 スポーツの多くは勝ち負けを競うものであり、得点という指標によって結果が明確になります。<青少年>と言われる年代であれば、この得手不得手によって、差別心が育まれやすい環境が生じてしまうことでしょう。

 どうも昨今の風潮を見ていると、スポーツ環境の整備を急ぐために、「施設があれば」「クラブができれば」、地域のコミュニケーションが深まり、健全な社会が誕生するはずだ、と考えられているように思われます。しかし、スポーツは魔法の杖ではありません。総合スポーツクラブは、ユートピアではありません。スポーツというのは、差別のタネにだって成りうるのです。

 施設を作ることよりも、もっと大切なのは、そこに良質なコミュニケーションを生むための仕組みを考えること、あるいは、私たち一人ひとりが、人との交流ということについてもっと真剣に考えることではないでしょうか?
 最初に書いたように、私はスポーツがコミュニケーションを円滑にする道具だと考えています。だからこそ、道具のスペックにばかり目をやるのではなく、それを使う人の心にもっと目を向けるべきなのではないかと思うのです。
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