スポーツとコミュニケーションについて病院で考えました

 来月、簡単な手術を受けるので、その事前説明で今日は病院に行って来ました。文字通りの2時間待ちの3分診療。よくある手術なので、ドクターは決まり文句をまくし立てるように、まさに立て板に水。淀みない口調の合間には、質問を挟み込むこともできません。
 まあ、こちらも「派手な治療」ぐらいに思うようにしているので我慢もできますが、あれが他人にメスを入れる人のやり方かと思うと、ちょっぴり怒りと悲しさが湧いてくる瞬間でもありました。

 メッセージを伝える側と伝えられる側に温度差があるというのは、コミュニケーションの大前提です。そこに差があることを認識していなければ、相手のことを思いやる情感に欠け、ディスコミュニケーションが生まれることでしょう。
 「俺はこんなに思ってやっているのに…」
 「いつもいつも、同じことをうざいなぁ…」
 スポーツだってきっと同じことです。フィールド(コート)の上で、チームメイトの考えていること、対戦相手の感じていることを察することができるか。コーチと選手は、温度差を縮める努力ができているか。先輩・後輩は、互いのことを尊重できているか、などなど。スポーツが一人ではできないもの、コミュニケーションの化身である以上、相手の「温度」を察する努力が、そこには不可欠です。

 日常の対人コミュニケーションでは、温度差を計る温度計が見えづらいケースがよくあります。前述のドクターだって、私がどの程度、病気や手術に対して不安を感じているか、計りかねていたのでしょう。
 でもスポーツはそこにゲームがあります。練習もあります。他者が何を思い、何を感じ、何にプライオリティを置いているのか、それを計る(察する)チャンスは、競技の中に見出すことができるはずです。
 あまりに楽観的かも知れませんが、スポーツが対人コミュニケーションを円滑にする切り札になりうるという夢は、まだまだ捨てることができません。昨日のエントリーでhakone-boyさんが指摘してくれたように、スポーツマンもただの人間で、そこにはいじめも犯罪もはびこっています。
 でも、彼らが競技を通じて他者への配慮を身につけることができれば、大きく状況は変わるのではないでしょうか。スポーツが「魔法の杖」にはならないとしても、着実に一歩ずつ、歩みを進めていくための「ただの杖」ぐらいには、なれたら良いなと、そんなことを薬を待つ、再びの長い待ち時間の間に考えていました。
 
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