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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

毎日が日本語英語ポルトガル語第3話:教育は投資なり

2019-04-10 10:21:18 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月10日

今では成人に成長した長子、息子の教育問題は、のほほん者のわたしでも、少し悩みましたw 前回述べましたように、ポルトガルの公私立には入れない、日本人学校、補習校はなし、の環境です。
では、他にどんな教育施設があったかと言いますと、まず、

①フレンチスクール(←こりゃ全くだめ。夫は少々分かるようだが、わたしは皆目分からん。ポルトの土産物店で、わたしが抱えてる品物をフランス人と思し召しきツーリスト女性に「それ、どこで売ってるの?」とフランス語で聞かれて(と思うw)、「フランス語話せません」をポルトガル語でフランス語風アクセントで答えて相手の目を白黒させた人間であるw)

②ジャーマン・スクール/ドイツ人学校(←ビアハウスで毎晩ドイツ語でビアソングを歌っていたのに、フランス語同様ドイツ語もチンプンカンプンw ドイツ語歌詞を丸暗記して、せっせと生ビール飲んでいたのでしただ^^;よくやってるよ、全く。よってここもダメ)

まだ英語が第二外国語の確たる地位を占めていなかった当時のポルトガルでした。小学校でも英語よりフランス語/ドイツ語が第二外国語とされ、英語は選択科目になっていた時代で、この2校は有名校でした。

子供がいったいどんなことを学校で学んで来るのか、わたしは興味深々です。あわよくば一緒に学びたいと思ったりしてたので、自分が理解できない言葉では無理ですし、手助けもできません。

ところが、もう一校あったのです、Oporto British School!(以下OBSと呼ぶ)調べて見ると、あらら、かなり入学が難しい学校ではござらんか!何が難しいかと言うと、子供は当然のこと親も英語を理解しないといけないと言う。更にイギリス国籍を持つ児童を優先的に入学させるので、必然ポルトガル人の数は限られる。聞いて見ると、ウエイティング・リストにズラリ入学希望者が並んでいるとのこと。さぁ、おっかさん、夫に「ここがいい!」

しかし、夫が渋るという問題が生じたのです。

①スクールバスがないではないか!(OBSは海岸近くのFozにあり、朝の出勤時間とぶつかりラッシュアワーをさけられず、我が家から車で毎日登校に1時間はかかった)

②幼稚園部と言えども、高額授業料。これを11年も継続できるか!(ポルトの私立小高大学全ての教育機関の中ででダントツ^^;)

当時わたしは今のように仕事をしておらず専業主婦です。
日本語の生徒は二人ほど、友達ということで頼まれてとっていたものの、大した謝礼は受け取りませんでした。(あ、今も同じですよん^^)義母、おばたち、それにわたしたちの大家族を扶養していた夫です、渋る気持ちは分かるものの、一旦決めると簡単には後に引かないのが「おっかさん」ことわたしです。

当時のOBSと言えば、しつけが厳しいと聞き、それも入学させたい理由のひとつでした。高校時代に学校長が推薦していた本に、イギリスのパブリックスクールでの学校生活経験を通して書かれた池田潔の「自由と規律」がありました。読んだ当時は「自由」を「奔放」と勘違いしていたものですが、少し苦い体験もしてある36、7の年齢になっていたわたしは、子どもの頃の良いしつけ、良い習慣は生涯の宝になるとの思いに至っていました。

そしてある日、強力な味方がついたのであります。
「どうしても日本語を学びたい」と言って、人づてでわたしの所に通っていたブラジル人女性のフェルナンダさんです。ポルトガル人のご主人と結婚しており、わたしとは親子ほども歳が離れていましたが、とても気が合いました。
彼女はブラジルでも屈指の名家の出で、息子が生まれる以前から「Povoa de Verzim」という町からポルトまで電車、そして更にバスを乗り継いで、週に2回我が家に勉強に来ていたのです。子供はいません。

彼女自身もサンパウロでは、英国学校で教育を受けた人だったのです。いわく、
「少々苦しくてもBritish Schoolに入れなさい。子に施す教育は投資です。バイリンガル、トライリンガル、心配しないでよろし。早く始める程に問題は少ない。わたしがその良い例です」
(↑ブラジル語は当然ながら、英語、ドイツ語、イタリア語をこなし、更に日本語をわたしと勉強していた。彼女が自分につけたニックネームは「papgaio=パパガイウ(オウム)^^

おおお!夫をなんとか説得せねば!と、我が子のおつむ具合も考えずに、フェルナンダさんの言葉を単純に信じて、日本語一本で息子に話しかけて来た「おっかさん」は、Biritish School入学準備として、我が子に、「英語をも何とかする@@」ことと相成ったのでありました^^;

毎日が日本語英語ポルトガル語:第2話「家庭語と教育の選択」

2019-04-07 22:24:08 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月7日

母親であるわたしと子供との伝達言語は日本語と決まったが、父親とはどうなるのか?この点はわたくしの決めることではないので、放って置いたのでありました(笑)

夫は子供達とは、ポルトガル語よりも英語、日本語で話しかけてました。ポルトガル語については、当時同居していた義母や夫のおばたちから耳に入るのですから、当初は大した問題ではないと判断したのでしょうか。

生れ落ちたとき、日本語、英語、あげくの果てはポルトガル語まで耳に入ったのですから、赤ん坊の息子はさぞかしびっくりしたのではないか。いや、案外「この世界では、これが極当たりまえのことだ」と、すんなり受け入れたのかも知れない。聞くよしも無し。

こういう具合にして、わが子の日本語教育は決まりました。

生後4ヶ月の息子、ジョンボーイ

息子が3歳になり、「この国でどんな学校教育を授けるか」の方針を決めるべき時が来ました。義母の家のすぐ裏にある公立学校の様子を垣間見てきたわたしは、子供たちがバス停で喫煙してても、注意をしない大人たちを目にしていましたし、なぜだか、しょっちゅうパトカーが学校に向かって走ってるし、これはまずいな、と思っていました。

東洋系がほとんどいなかった40年近くも前のことです。わたしはポルトに住み着いた最初の日本人でしょう。
街を出歩くたびに、「シネーザ、シネーザ(chinesa=中国人女性)」と指さされ、これが頭にくることに、最初の頃はポルトガル語が分からなかったもので、「死ね~死ね~」と聞こえたのであります(笑)

我が子は、東洋系の容貌を持つと言う、自分が望んだものでもないことで、囃されたりいじめられたりすることは、目に見えています。公立の学校へはやるまい。私立の学校となると、当時はどれもカトリック系です。これもわたしはクリスチャンではないのでやりません。そして、日本人学校はない・・・

これは言葉の勉強ではなく、後の我が子の人生に大きな影響を与えることになるであろう、学校教育の選択問題です。

夫とは随分話し合うことになるのでした。

毎日が日本語英語ポルトガル語:第1話「英語ポルトガル語ペラペラ?」

2019-04-05 12:56:12 | 毎日が日本語英語ポルトガル語
2019年4月5日

ヤフーのホームページサイト閉鎖により、消滅したわたしの最初のホームページの中で、機会があれば今一度書き直してみたいと思ってきたカテゴリが2、3あります。

記憶が薄れないうちにと、推敲もなしで思いついたままつらつら綴ったものですから、手を入れて再掲載して行きたいと思います。
グローバリズム思想が拡大し、コンピューターを駆使した今の世界では、言語習得の方法もその気になれば簡単に見つけることができます。ですから、海外にいながらにして子に日本語を身につけてもらうのも、できそうな気がします。

が、わたしのトライリンガル子育て体験は、パソコンなし。今であればアマゾンで検索し本の取り寄せもできるのですが、それが簡単ではなかった35年ほども前の話です。また、共稼ぎが当たり前になった現代と違い、専業主婦が多かった社会です。その辺の違いを念頭に置いて読んでいただきたいと思います。

そして、わたしの体験を通して、少しでも日本国内外で日本語教育に面している方のヒントにしてもらえたら嬉しいです。以下。

★第1話「英語ポルトガル語ぺらぺら?」

人間稼業を70年もしていると、自分の事しか見えなかった若い頃に比べて周囲が少し見えてきます。

例えば、国内海外での子供の日本語教育にしても、自分の子供がこうできたからと言って、その結果例が他にも当てはまるとは限らないということが分かるものです。ですから、この体験談は、「わたしの場合はこう出来たけれども」と言う前提で進めて参ります。
現在日本に住んでいるわが子二人ですが、リスボン大学を卒業した息子と違い、ポルトの高校を卒業するなり日本の大学受験をした娘の場合、片親が日本人で、日本で生まれ育ったわけではないのに、果たして大学の学問に取り組んでいけるだけの日本語能力がついたのか、という点ですが。

もちろん、彼女の日本語理解のお脳部分は、あちこちプチプチと白い斑点が散在する如く、斑(まだら)状態であったと確信しています。そのような斑状態は、実体験を経て新鮮な知識となり少しずつ埋められて行ったと思います。ある程度の基盤ができていると、その埋め立ては、せっせと進められます。その日本語の基盤を作ることが、海外における日本語教育の難しいところでしょうか。

「英語ぺらぺら」という言葉を耳にすることが多くあります。わたしもポ国に40年もいると言うと、「じゃ、ポルトガル語ぺらぺらですね」と来ます。日本で生まれその教育を受けてきた日本人なのですが、「日本語ぺらぺら」かと問われれば、いや、待てよ。となります。どこの国の言葉でもそうでしょうが、とりわけ日本語は非常に奥の深い言語だと思い始め、じっくり落ち着いて書くことと、話すことを併せたペラペラか、と考えると、やはり、待てよ、となるのです。

「○○語ぺらぺら」の評価には、なんとなく薄っぺらな感じを受けるのですが、みなさまはいかがでしょうか。この外国語談義は、またいずれの機会にするとして、そんなわたしですから、長年ポルトガルに住んでいるというのに、自慢できるほどポルトガル語がぺらぺらでないのは誠に面目ない話ではあります。

さて、ポルトガル語を全く知らずにポルトに来たわたしの周囲との伝達言語は、英語でした。
長男のJRが生まれる段になって初めて、いったい子供とポルトガル語の環境でどんな言語で意思の疎通をはかれるのか、考えて見ました。

子どもたちの幼児期の記録アルバム

結論は即、どんな言語もなにも、あぁた、あるものではありません。いくらか話せると言っても、英語では子どもが成長するにつれて、行き詰まってしまうことが目に見えています。自分の母国語である日本語しかないではありませんか。

しかし、ポルトに日本人学校はありません。ならば、母親の国語として自分がこの役割を務めて行くだけです。
単純簡潔です。こうして、少なくとも母親のわたしと子供とのコミュニケーション手段はまず決まったのでした。

では、ポルトガル人の父親とはどうなるのか?

第2話に続きます。