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ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

BOIN

2017-10-15 09:05:28 | 家族の話
2017年10月15日

現在は東京の大学、数箇所で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。以下。
夏休みを返上して、丸一ヶ月9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をとった息子が、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人教授をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきている30代の女性だそうで、教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたし、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

ある日、彼が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも意外と役立つと思ったのである。

本日も、授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、その日はずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。
(ネットでの会話は今でこそ息子とは日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字だ)
「ボ、ボイン?^^;」・・・・
「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思うので一応ちゃんと説明をつける。
「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通らないよ。
   第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母 「うげ!@@@@か、勘ぐりすぎた!」
息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑)
息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。
ん?あんたが早とちりなだけだって? は、はい、さようでござんす。

東京息子の誕生日

2017-09-25 16:16:03 | 家族の話

2017年9月25日
 
我がモイケル娘は18才で、東京息子とわたしが呼ぶ息子は27才で我が祖国日本へ送り出しました。もちろん子どもたちが自分で決めてのことです。

モイケル娘が大学を卒業し、東京の企業に就職するに当たり、息子も東京麻布のアメリカ系語学学校の職を見つけ、兄妹二人での同居生活が始まったころの日記にこう書いています。

3月11日(水) あんたはえらい!
南行徳に居を構えた二人の兄妹、昨日やっとネット接続ができました。

引っ越してちょうど一週間になります。まだ、アパートはすっかり落ち着いたところまで行かないでしょうが、なんとなく人が住む部屋らしくなってきたことでしょう。

さて、息子が早速メッセンジャーで言うことにゃ、今日、周囲の人たちに笑われたのだと言う。
なんで?と期待満々の心で聞く母(笑)

一人で布団を買いに行った。宅配してもらうとお金をとられるので自分で運ぶことにしたのだそうだ。
息子が電車に運び込んだその荷物とは、「マットレス、敷布団、掛け布団、毛布、それに枕」
・・・・・・・・・・お、おい@@、お前、それを全部持って歩いたんか~(爆)

しかし、考えてみれば、大してお金を持っていない身分の息子、ちょっと頑張ればできるようなことなのだから、重いだのカッコ悪いだので払うのは無駄なお金だとして、できるだけ使いたくないのだろう。

今時、日本ではそんな大きな荷物を持って町を歩く輩はおらんわい。周囲が見て笑うのもごもっとも!と思いながらも、大都会でイナカッペ丸出しの息子の話を聞いてわたしはなんだか楽しくなった。

息子よ、あんたはえらい!周りがどうのこうのというより、迷惑をかけないのであれば、そういう範囲内であるならば大いに自分の主義を通してください。

息子のこんな話を聞きながら、晴れて日本の大学生となり、日本で一人暮らしを始めた頃のモイケル娘の愉快な話をも思い出さずにはいられなかった。最近、この手のズッコケ話を彼女から聞かなくなったから、少しは日本社会に染まってきたのかしら。


赤ん坊の頃の東京息子
ついでにおっかさんと一緒の写真も。わっかかったぁ。この頃はわたしが心密かに「3ばば殿」と呼んでいた夫の母、その母の姉妹二人と同居の時代でした。すったもんだのこの6年間の同居生活が今のわたしを作ったと、感謝するこの頃でもあります。



ジョン・ボーイと呼ばれていた少年期。衣服はほとんど手作りでした。

15才の誕生日にエレキギターを贈ったのが親の運のつき(笑)。すっかり音楽にはまってしまいましたとさ。

リスボン時代の息子のアパートスタジオ。

今では麻生の語学学校での仕事はパートにまわし、日中は四方の大学での英語講師の仕事を増やし、「とうとう月から金まで働く羽目になった」と嘆く息子の話を聞き、夫曰く「Dente de juizo(知恵の歯、息子に関しては「分別の歯」とわたしは訳すのだがw)が、やっと生えて来たようだ。」

一応合せてはいるが、日本社会との摩擦は結構あるようで、天真爛漫、天衣無縫の彼の季節が遅まきながら終わる時期にさしかかったのだろうと思っています。

渡日してからの息子。

働きながら好きな音楽作曲をし、時には新宿あたりでコンサートをしたりしていた東京生活初期の頃。

下は天衣無縫な息子の性格がよく表れていて、わたしが大好きな写真の一枚。夫の友人の娘さんの誕生日でわたしたちが招待され、カメラマンがいざ記念撮影をとシャッターを押した瞬間の息子と母親の一場面なのです。おとなしくカメラマンの前で並んでいた他の子供たちも息子の一瞬の行動に思わず口を開けて驚いたり笑ったり。

 
ちょいまち!(爆)


息子よ、今日はこの言葉を贈ります。「失敗のない人生こそ失敗である」

誕生日、おめでとう。

めざせ!漢検2級

2017-09-10 12:03:59 | 家族の話
2017年9月10日 

今日は我がモイケル娘に関する小噺(!)です。
週に一度、土曜日のポルト補習校を高校2年一学期で退学し、その年の秋からは現地校の最終学年12年生に進級、モイケル娘が1年間を総仕上げのポルトガル高卒国家試験勉強に集中していたのが、一昔以上も前のことになりました。

幼稚園部から11年間Oporto British Schoolに通い、場合によってはポルトガルの大学に進学するかも知れぬとの夫の考えで(この時娘は既に日本の大学受験を決心していた)、高校3年間はポルトの私立学校へ移りました。

11年間英語で受けていた授業が突然全てポルトガル語での授業になるわけですから、言うなればポルトガル国内の帰国子女みたいなものです。それ故1年目の成績は少し悲惨でしたが、徐々に向上し国家試験も無事パスしました。

この高卒資格と同時に大学入学の選択に大いに影響を及ぼす国家試験が頑張れたのは、恐らく日本の帰国子女枠大学受験でその結果が重要視されたからだと思います。
無事に第一志望校の一つ、早稲田に合格した時は「ポルトの星だ!」と補習校の人たちに言われたものです。
12年間ポルトガルで生まれ育った娘が、帰国子女枠とは言え、厳しい英語国語の小論文試験をとにかくパスしたのですから、親バカながらよく頑張ったなと、夫の悲嘆を横目に本人同様喜んだものです。夫にしてみれば、これからかかるであろう学費生活費の大きな出費もさることながら、愛娘が遠い日本へ行ってしまうことにひどくがっかりしたのでした。

そうして入学した大学を、「コースの内容が自分の思っていたのとは違う」と、いとも容易く捨てて、地方の大学転入試験を受けると聞いたときには、晴天の霹靂。しかし、本人の意思を変えることはできませんでした。

さて、その時の編入試験時の話であります。

「手ごたえはどうだったの?」(←断固、転入編入反対しているのではあるが、とりあえず聞いてみたw)
「う~ん、どうなんだろ・・・でも、英語を和訳するところで、漢字間違った。」
「漢字を?自信がない漢字はひらがな、もしくはカタカナで行こうよ。」


試験問題の和訳は「核」に関する英文だったそうだ。「nuclear」つまり日本語では「核」であります。
その「核」が三箇所も出てきたのだそうで、間違った漢字というのは、「核」なんだって^^;

どんな風に間違ったかと言うと、あっはっはっはっは!これが笑わずにおらりょうか。もう腹が痛くて涙が出てきて、当時のチャット仲間にも一言、「お前、それ落ちてるぞ。」と言われてプリプリしている娘も構わずパソコン前で体よじってわたしは笑ったのでした。

で、どういう字を書いたかと言うと、木へんに玄!ぐはははは!そんな字、あったっけ?と問うと本人も既に調べたようで言下に「ない!」と(笑)
しかし、なんとなく似てるには似てるではありませんか。帰国子女は往々にして、こういう間違いをします。しばらくはこの話を思い出しては噴出している悪い母でありました。

我が日本語塾では漢字習得奨励の一環として、毎年生徒たちに10級9級、できれば8級までの漢字検定試験を受けてもらうのですが、モイケル娘は3級までの合格を果たしています。

どれどれと思って調べて見ると、この「核」という漢字、2級で出題です。やっぱりねぇ^^ 

海外の準受験会場では2級まで受験できます。わたしも随分昔に2級を受験してパスしています。しからば
準1級をとテキストを取り寄せてみたものの・・・・受験会場は日本国内に限定。2、3年じっくり取り組んで勉強しないと、とてもとても歯が立ちません。

もいちゃん、2級まで受験してみましょうよ、核はもう覚えたであろうし(笑)
と笑って冗談言ってたところが、「核」の間違いに拘わらず、編入試験に通ってしまったという、本日は懐かしい昔の話でありました。

娘とわたしの日本の大学受験戦争に興味のある方はこちらでどぞ。
★「ズッコケ親子の日本受験戦記

美しいわたしの日本:野だて傘

2017-08-31 23:38:52 | 家族の話
2017年8月31日

子供たちが小中学生だった頃の帰国はほぼ3年ごとで、国への想いも一入(「ヒトシオ」と読むのだよ、モイケル娘よ。笑)だっものだ。

「あれもあったらいいな、これも欲しいな」と、3年分の想いがあるので、帰国していざポルトに帰って来る段になると、滞在中に買い集めた物の荷造りで毎回四苦八苦していた。

二人の子供たちの分も合わせて、飛行機に送り込む手荷物は、エコノミクラスで60キロなのだが、とてもそんなものでは収まらなかったのがわたしたちである。

子供たちの日本語教育に必携の参考書やドリル類から、自分が読みたい本、文房具(鉛筆、消しゴム、クレヨンなどの筆記用具は日本製が俄然良質なのであった)、和食器類に及び、日用品に於いては当時はポルトガルであまり見かけなかったプラスティック容器、果ては洗濯バサミまで持ち込んで、夫や夫の家族は苦笑したものだ。

時が移り、ポルトガルがヨーロッパ共同体の一国となりネットの普及等で今では色々便利になり、値段に余り細かくこだわらない限り、大概の物は手に入るようになった。世界的な日本食ブームで醤油、ダシの素、酒等も近頃はポルトで手に入る。

それで、家族から「船便代に10万もお金をかけるなんて、中身とあまり変わらないじゃないの」と呆れられていたわたしだが、近年はそうやって船便荷物を日本から送ることもなくなった。

考えてみると、持ってきた和食器もどうも今一、洋風の食卓には合わない気がするし、第一、食材が違うので和食器に盛り付ける少量多種のおかずが食卓にたくさんのることはなく、せいぜい、ほうれん草のおひたし、白野菜の酢味噌和え、豆腐の揚げ浸しが一品くらいずつだ。和食器は専らわたしが手に持って眺めるだけのことが多くなった。

わたしは時々依頼されると日本文化展を開いたりする。なに、自分が長年少しずつ持ち込んで来た日本の小物をベッドの下の箱に仕舞い込んだままではもったいないので、素人がお披露目をするだけのことなのだ。

日本から持って来た物の中でも、わたしが思い切って持ってきたのが、これです!↓

唐傘、番傘と呼ばば呼べ(笑)、買った当の本人は「野点傘(のだて傘)のつもりなのである。
これを探し回るには3週間の滞在では無理!野だて傘もどきをネットで探すのも大変だったのだが、やっと見つけ、当がモイケル娘に事前に買って置いてもらったのだ。

危うかったのは、包んだ紙が丁度よかったのか、当時息子と娘が同居していたアパートに着いてみると、モイケル娘の猫たちが早速に爪とぎにしていたこと!「ひゃ~~!」と、猫立ち入り禁止の息子の部屋に移したので助かった。息子の部屋は音楽作曲のpc機器が色々おいてあるので猫が入っては何かと危険なのである。

野点傘(妻折=つまおれ、とも言う)は柄がずっと長いのだが、値段が安くて7、8万から16、7万円、お茶を点てる(たてる)わけでもないわたしが、ほいほいと買うものではない。 が、わたしはず~っと長い間、これが欲しかったのだ。「赤は日本の色」だとすら思っている。日の丸だってそうだ^^

そして、野点傘の何に惹かれたかというと、赤色もさることながら、広げた傘の中、上部のこれです!

安物の傘ですら、かがり糸のこの美しさには目を奪われます。

これを二本、ダンボール紙でぐるぐる巻きにして持ってきたのですが、日本人はよく手荷物を開けられて足止めを食いがちなポルトの空港、「O que isto?(それは一体なに?)」と、きっと呼び止められるだろうと思っていたら案の定(笑)
「日本の紙の傘です。展示会に使います。」と答えると、中を開けて見ることなく、す~っと通ることができた。その時だけはこの荷をほどいて開き、見せてあげたかったくらいだったが。
こんな伝統的な日本の美も日本に居たら気づかなかったかもしれないと、小さなこの発見に大人気なく得意げになったものである^^;

下の写真は2017年春に市立図書館における日本文化展示会の一部。野だて傘はこんな風に使っている。


親心

2017-08-29 16:36:53 | 家族の話
2017年8月29日 親心

子供と言うのは小さい時は小さい時の、成長したら成長したなりの親の心配がありますね。
偉そうなことを言っているわたしですが、こんなわたしをあの世で我が母はさぞかし可笑しがっていることでしょう。「お前さんにかけられた心労は、そんなものどころでなかった」と^^;

母は、尋常小学校しか出ませんでしたが、読書、音楽、映画好きでわたしや妹もそのDNAをしっかりと受け継いだと思います。その母の口からわたしは、一度も小言の類を聞いた記憶がありません。

わたしの思春期の父との衝突も、とばっちりを受けてきっと大変だったでしょうが、黙って見ていてくれました。中学時代の2度の家出も、無言無謀だった十代後半のさすらいの旅をした時も何も言わないでくれました。言ってもしたいことをする娘だと思っていたのかもしれません。

もし、我が子が今これと同じ事をしたら・・・と、この身をそこに置いてみると、あの頃の母の気持が手に取るように分かります。

金曜日の夜は、TGIF(Thank Good .It´s Friday!の米語略語で日本語の「花金」にあたる)だと言わんばかりに、都内で英語講師仲間と飲み明かすのだと言う息子、終電車に間に合ってるのか、酔っ払ってホームから落ちたりはしないか、はたまた、端の日本人と喧嘩はしないか」と、自分も心当たりがなきにしもあらずなもので、遠いポルトにいて気が気でならない。

娘が翻訳会社勤務の時は、夜9時10時までの残業がしょっちゅうあったので、「日本は世界一安全な国だ」などと言われたのは昔の話で、若い女性が一人、夜間、駅からアパートまで歩くなんて、いくらなんでも酷いと、帰路が心配で、そんな仕事は早く辞めてしまえ、としつこく言ったものでした。

子をあれやこれやと慮る(おもんばかる)親の気持ちを知るのに、随分長い時間がかかりました。

そして、息子や娘が頑張って時々ポルトガルに帰って来るのを目の前にして、19で故郷を後にして以来ほとんど帰郷しなかった若い時分の親不幸を悔いています。
「子を持って親の気持が初めて分かる」
「孝行したい時に親はなし」
「いつまでもあると思うな親と金」

これら全てをわたしは今実感しているのであります。
親心って切ないもんやなぁ。

 
子ども時代の我が子たち

成長した二人