ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:927番地を後にして

2018-05-19 06:27:07 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月19日 

 
アリゾナ大学のキャンパスにて。どこまでも続く澄んだツーソンの青い空。

アリゾナ大学キャンパス内にあるカフェで、ひとり次の授業までの時間をつぶしていた時である。
およよ?と思ったら、あっと言う間に数人の若い日本人男子学生たちに囲まれてしまった。手紙を書いていた手を止め、何事かとキョトンとした顔で彼らを見上げるわたしに、ボスと思し召しき若造が(笑)、

「アンタさ、生意気じゃない?」
「日本人と交わらないって言うじゃん」と、おいでなすった。

わっはっはっは。おふざけじゃござんせん。

ツーソンに着いて大学に通い始めたころ耳にしたのが、「前期コースの日本人留学生が全員、ミセス・ネス(ESL校長)に呼ばれてしこたま大目玉を食った。週末のみならず週日までディスコやパブで遊びまくって成績劣悪。コースの修了書出さん。」という噂である。

1979年のことですから、日本はまだバブル経済に突入してない。そういう時期のこと。親のスネをかじった分際で、遊ぶのはまぁ人の金だからいいとして、勉強しないで何のための留学よ!と人事ながらわたしは苦々しく思っていたのである。

見た感じがちょっとだけわたしゃ若く見えると思って(笑)徒党を組んでちょいとヤキでも入れてやったらビビるとでも思ったんでしょうが、そうは問屋がおろさない。

このボスとはリスニングクラスで同じになり、メキシコ人の少々お高くとまった女子学生と言い合って、男が女に吐くべからざる「Fで始まる4文字」を公衆の面前で言い放った子です。自己主張を履き違えるとこんな風になる^^;あぁ、恥ずかしいw

オフィスの仕事が終わったあと、何年もかけてビアハウスの歌姫バイトで貯めたわたしの留学資金、彼らと行動を同じくしてとても遊んでなんかいられまへん・・・「危うし」エピソードでも書いたように、このころわたしは読解力クラスと作文クラスで必死こいていたのでありますもん。

で、実はシェアハウス内でもちょっとしたトラブルが、芽を吹き出しはじめていたのでした^^;アメリカでは「T.G.I.F.」(Thank God.It`s Fridayの頭文字をとったもので、ああ神様、金曜日だぜぇの意味。今なら「花金」と訳せるか)と言って、金曜日の夜は誰でもたいていどこかのパーティーにでかける。一人で行くのは少なく、たいがい誰かパートナーを連れて行く。パートナーは別に恋人でなくていいのだ。そこで独り者のロブはしきりにわたしを誘う。「金曜日の夜くらい息抜きしなよ」

最初のころは、時々お付き合いしたものの、週末も宿題等の勉強に追われ、ロブの誘いもほとんどお断りです^^;「アホか~~」と言われながら、この頃はどんな誘いも断っていました。今考えると、ちょっと意固地になっていたところもなきにしもあらず。

結果としては、ロブともギクシャクしていたのでありました^^;そこで考えた。ちょっと考えた。(よく考えるのだw)
うん。自分の部屋には机ちゅうもんがないし、それでいつも夜遅くまで大学の図書館での勉強を強いられる。これはこれで好きなのだけど、夜のキャンパスは危険なので女一人で歩くなとお達しが出ていた。

故に図書館で勉強するときは、ボディーガードも兼ねて必ず誰か男子学生を誘わないといけない。これもちょっとめんどくさくなっていたのでした。 よし、引越ししよう!spacesis、927番地を出ることになったのであります。

さっきの徒党を組んだ若造たちとの結論、忘れてましたw こちらはとっくにトウが立ってる遅まき留学生(笑)、理論整然です。わたしの言に返す言葉もなく、それでも空威張りで、彼らは肩で風だけはしっかり切って去ったとさ。(爆)

アリゾナ留学記:「ずっこけ3人組」

2018-05-17 04:21:30 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2-18年5月17日

「グリーンが来るよ。」
三週間ころ経ったある日、シェアハウスの友、ロブが言った。ブルース・グリーンは20歳を少しだけ過ぎた、とても若い友人で、彼は前年まで日本で交換留学生としてホームステイしており、たまたまわたしが通勤に利用していた京阪沿線に住んでいたのである。

ブルースとわたしの出会いは誠に偶然なものであった。当時わたしは留学資金を貯めんがため、梅新のビアハウスで歌姫のバイトをしていたのだが、ビアハウスを9時半で終わり帰宅につくと、よく同じ車両に乗り合わせる外国人がいるである。

午後10時ともなるとさすが電車の乗客は少なく、乗り合わせ客同士は、しようと思えばお互いにいくらでも観察できたw若くやたら背の高い、色が真っ白の典型的なアメリカ青年である。気をつけなくたって目立つと言うものだ。後で知った話だが、あちらもしょっちゅう乗り合わせるわたしの顔だけは知っていたようだ。

それが、ある日偶然アサヒビアハウスへ、ひょこっと本人のバイト先、語学学校の上司マーチンさん、そしてイギリス人の同僚、ロブとで現れたのだ。その時のわたしたち、アリゾナ大学でわたしがザワちゃんんを見つけた時と同じようにお互いを指差しあって「ウォー!」


ブルースが働く語学学校のグループ。右手前が校長のマーチンさん


かつての梅新アサヒビアハウス名物(現在は「アサヒ・スーパードライ梅田」と改名)、5リットルジョッキー廻しのみに挑戦するBruce君。 

そんな経緯もあってか初対面からロブとグリーンとわたしはすっかり意気投合、以後週末が来る度に3人でつるんでは、
「タコスとシャングリラが美味しいパブがある」と神戸へ、
「京都にビートルズって名前のビートルズ曲だけ聴ける店がある。すわ!」
「相国寺では観光客に座禅体験させてくれる。行こうよ!」という具合であった。ロブとグリーンのこの二人、背丈の差がありすぎてまるでサイモンとガーファンクルみたいで、それがとても面白かったwそのグリーンがミズーリーから車で数日かけて、ツーソンにやって来ると言うのだ。

そして、来ました来ました(笑) ミズーリーの片田舎の農家の子です、後ろが荷台になっている大きな車を運転してはるばるやってきたのであります。

久しぶりに顔を会わせたずっこけ3人組、早速砂漠へでかけて、前座席に3人腰掛け、アメリカはなんつったって車が運転できなきゃいけない、とわたしの運転練習(笑) 今はどうか知らないが「車を前進させられれば免許がおりる」と言われたくらい、当時のアメリカでは、自動車学校などに行かなくても運転免許がとれたのである。


ソノラ砂漠で。グリーンとロブ。これだけ広かったら、さすがの運転音痴のわたしも何とか運転できそうだと思ったのがまちがいだった。

「ここだと車がほとんど走らないし、突っ込んでも砂漠かサボテンだから、Yuko、心配するな」って、おいおい、みくびっちゃぁいけないよ(笑)とは思ったものの、情けないことにその通りで、何度もサボテンに突っ込みそうになり、横に座るブルースが慌ててわたしのハンドルを奪い取って切るのであった。終いには、「運転能力まったくなし!」と二人に太鼓判を押されたのでした。
(今はこのポルトガルで、わたしが奇跡的にもイッチョ前に運転しているとは、二人とも夢知るまい。笑)


サイモンとガーファンクル、おっと違った、RobとBruceでした。 


ソノラ砂漠の巨大なサボテンの前でグリーンと。これに突っ込んだら・・・^^;そしてこの背丈の差。ロブだけでなく、自分も同じくらいチビなのを忘れていたのであった(笑)              


夜ともなると、3人でわたしがこれまでに見たこともないデカいアメリカピザをたいらげ、当時上映中の人気抜群、「Saturday Night Feaver」を大学構内の映画館に見に行ったりしたのでした。グリーンはわたしたちの家のリビングのソファので寝、三日目に再びミズーリーのいつもの生活の場へと帰って行った。

三島由紀夫が「午後の曳航」の中で、ミズーリーのトピーカ出身の船乗りのことを書いてるのを教えてくれたのは、このグリーンである。そのミズーリーが彼のご自慢であったのだ^^

「ずっこけ3人組」はあれから35年、再会していない。

【追記】2012年1月に、ズッコケ3人組の一人、ロブと25年ぶりにフェイスブックを通じて連絡があり、わたしたちはネット上での再会を喜んだのでした。なんと、オマーンの大学で英語教授をしていたのでありました。


★一ヶ月ほど日本に帰国しておりましたので、更新が少し滞りました。ポルトに戻り、また更新を続けて参りますので、宜しくお願いいたします。


アリゾナの空は青かった:Tom Waits と ワルツリィング・マチルダ

2018-05-10 14:45:48 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月10日

前回のアリゾナ、ツーソン留学記で、アメリカの歌手、トム・ウエイツに因んで、もうひと話。

高校教師を退職したポルトガル人の友人、マリアさんが、時折自分が手がけた劇の脚色の話をしてくることがある。先日も話の弾みでわたしたちは日本語授業そっちのけで、30分ほど話が盛り上がったのだが、

「それでね、その場面にTom Waitsの歌を使ったのよ。」との彼女の言に、
「ま、待てぃ!トム・ウエイツってあのトム・ウエイツ?」

トム・ウエイツにあのもこのもないのだが、わたしがこれまでこのアメリカの歌手の名を引きあいに出しても、一人として知っている人に出会った験しがなかったのである。そして彼の歌を紹介すると、決まって聞かされるのが、「なんだ、この声?」という感想である。若いときからトムの声は酒とタバコで潰れたシャガれ声で、近年は歌うというより、語りと言った方が適していよう。

しかし、1970年代も終わりに渡米して、たった半年ではあるがアリゾナにいたわたしにとって、トム・ウエイツはノスタルジックでたまらない。目を閉じれば、ツーソンNorth 2nd Avenue 927番地のドアの向こう、裏庭に面し、遅い午後の光を取り込んだ空間の一隅で、くわえタバコにアンダーウッドタイプライターでパチパチ原稿を打っているハウスメイト、ジョンのシルエットが浮かび上がってくる。

「ワルツィング・マチルダ(Tom Trauberts Blues)」と「ニューオリンズに帰りてぇな」(I wish I wasin New Orleans)」は、トムのシャガれた声が却ってジンと染みていいのである。(↓わたしの持つ1976年版Small Change LPジャケット裏のTom Waits)


tom waits

♪疲れちまってよ。
 月のせいじゃねぇんだ、身からでたサビってことよ。
 また明日な。おい、フランク、2、3ドルばかり貸してくんないか?
 To go waltzing Matilda,waltzing Matilda,
 You´ll go a waltzing Matilda with me. 
(spacesis訳)


今日は英語で書かれてあるWaltzing Matildaの解釈なのです。

このワルツィング・マチルダがどうも意味がつながらなくて、長い間気になってきたのだ。「2、3ドルばかり貸してくんないか?マチルダとワルツを踊りにいくのによ」と、考えてみたのだが、それだとMatildaの前に前置詞withが入らなければならないではないか。英語の部分2行目のように。

マリアさんと話すことで、久しく忘れていた疑問を思い出したのである。

トム・ウエイツが編曲して引用しているワルツィング・マチルダは、今はどうか知らないが、わたしが若い頃はよく耳にした歌で、オーストラリアの第二の国歌とも言われる。渡米の資金調達のために、わたしは、昔バイトで大阪梅新のアサヒ・ビアハウスの歌姫をしていたことがあるのだが、よくこの歌をリクエストしたのが日本人の奥さんを持つオーストラリア人のマーチンさんだった。時にはステージに彼やアメリカ人の友人ブルースを呼び出して一緒に歌ったりもした。


アサヒ・martimgreen

♪Once a jolly swagman camped by a billabong  
  昔、陽気な放浪者が池の側にキャンプをはった
 Under the shade of a Coolibah tree       
  ユーカリの木の下で、
 And he sang as he watched and waited till his billy boiled
  ブリキ缶の湯沸しが煮え立つのを待ちながら歌ったとさ
 You'll come a waltzing Matilda with me     
お前が俺と一緒にくるのさ、ワルツィング・マチルダよ

「a waltzing Matilda」とはswag(山の放浪者が携帯する今で言う寝袋?)を背負いながら放浪すること、と見つけたり!

Matildaは、紀元前300年頃からエルバ川北方に移住し始めた民族(主にドイツ人を指す)の逞しい女性の代名詞。同時に、移動するワンダーラー(Swagies)達に同行し夜は侘しい彼らを暖める女、妻の意味もあることから、放浪者が携帯する毛布、寝袋等の荷物をMatildaと呼ぶに至ったらしい。(興味のある方はこちらを参照。英文です)

そう言えば、当時わたしが勤めていたオフィスの本社のアメリカ人、ボブ君が、「この歌は英語を話す僕らもなんだか意味がよく分からない不思議な歌なんだ。」と言っていたのを思い出した。

オーストラリアの「Matilda」の意味は分かったが、それでもトム・ウエイツの「2、3ドルばかり貸してくんないか?To go waltzingMatilda=旅に出るのによ」では、まだしっくり来ない。昔のこととは言え、2、3ドルでは旅には出られまい。

ねぇ、トム。あんたの歌ってあんたの心の中のように、分からないのかね?と思わずトムの口調で呟いてしまう本日のspacesisでありました。

ちなみにワルツィング・マチルダは、かつてわたしがチャット・ルームでお開きの合図として流してたものです。本日の色々な検索で、トムもこの曲をライブのトリに使っていたようです^^

また、日本のテレビドラマ「不毛地帯」のエンディングに流されていたと聞きます。
一編聴いてみてもいいかなと思われる方は、下記でどぞ。



   
本日もお付き合いいただき、ありがとうございます

Spacesis危うし!挫折か

2018-05-02 14:39:39 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年5月2日

クラス全員に手渡された一冊の分厚い本、「Travel with Charlie」にわたしは呆然とした。

本の内容を知るためには、たとえ牛歩の歩みのごとくであっても、辞書を片手に読んでいくしかないで。
金曜日、週末の誘いの声もうわの空、帰宅して読書にすぐにとりかかった。そして知った己の語彙力のなさ。誠に牛歩の歩みなのだ。それでも投げ出すことはできなかった。

こんな状態ででどうやってテストに臨めるか。考えました。
そしてわたしがしたことは、もう単語はいい!分からなくてもとにかく最後まで通しで一度読破すること、これで行こう!

するとです、分からない部分が殆どなものでドンドン飛ばして、一回目は辞書なくして意外とスムーズに終わった(これがスムーズと言えるのか。笑)

うむ。しょっちゅう出てくる単語があるぞ。これ、気になるから、調べてみよう。2度目はそういう単語のみ辞書をひき、他は分からないままにして読み進んでいくのであります。最後は、辞書なしで初めと同じように3度目を読み終えた日曜日の夜、「ふむ。要は、スタインベックがチャーリーと言う名の犬を連れて、トレーラー車でアメリカ中を旅して、行き先々でいろんな人に出会い、その体験をああだらこうだらと書いているのだな。」と、なぁんとなく分かった気がしてきた。(笑)いい加減なものです。

こうして臨んだ月曜日のテスト、これが思いの他、良い結果が出たでした。Mrs.chisholmから採点された答案用紙を手渡されたときの、あの一言。「Excellent」 うひょひょひょひょ^^ 実に爽快でありました。「おバカ。週末くらいリラックスしなよ」の友の言葉に背を向け、それを返上して勉強した甲斐があったというものだ。

以後わたしはこのやり方で、テキストを読みこなしていきます。そして、この「Excellent」の結果に気をよくして、Mrs.Chisholmのクラスに留まるのでした。ESLのコースが終わる半年後、わたしがもらったReading Comprehensionの評価はAでありました^^ えへん。

ない頭も、必死に考えをめぐらして方法を編み出せば、突破口はできる。わたしの例がそれです。それにしても立派なのは、わたしの弱音を安易には受け入れず、冷たい素振りでチャレンジを促したMrs.Chisholmです。彼女はアメリカインデアンとアメリカ白人の血をひいていると聞きました。

上でエヘンと威張ってみたものの、この評価「A」は、「実質は伴わないけれども、努力」の部分が多分に含まれている、額面どおりではあるまいと、わたしは自覚している。

spacesis 危うし!挫折?(1)

2018-04-27 06:27:34 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月27日

これには参った!
たいがいのことでは、そう簡単に音を上げるわたしではありません。が、クラス編成前のテスト成績が運悪く良かったのか(^^;)、Reading Comprehension(読解力)はとてつもなく難しいクラスに入れられた・・・これは、文法が得意な日本人によくありがちなことのようです。クラスでは長文を読んで質問に答えていくのだが、語彙力不足でチンプンカンプン、トホホでありました。クラスで日本人はわたしがただ一人です。周囲の様子をそぉ~っと目で探って見ると、みな平然とした顔であります。

前もって予習できるテキストを使う分にはなんとかできる。しかし、突発的にクラスで配られるそのReadingテキスト、クラスでパァ~ッと読んですぐ答えろなんて、あぁた、きついよ、そりゃ。この手の授業形態はまさに実力を試すもの。もう泣きたい思いです。

前もって予習できるテキストも10ページやそこらではありまへん。ぎっしり言葉がつまったページが30、40ページとあり、未知の単語を一語一語拾い上げて、辞書と首っぴきでしても、他の科目の宿題もあり、一晩かかってもしきれない・・・10日ほどねばってみたけど、ダメダこりゃ。歯がたたないや。思い余って授業終了後のある日、クラス担当のMrs.Chisholmに掛け合いに行きました。

「レベル、間違ってますよ。とてもこのクラスでみんなとやっていく能力ありません。」
と、音を上げるわたしを先生はじっと見つめます。少し間を置いて返ってきた彼女の返答は、
「後2週間がんばってひっついて来なさい。」

あと2週間も、このクラスで悶々としてダンマリなんて、止めてくれ~。こんな心の叫びも素知らぬ顔のMrs.Chisholm、そう言い残してサッサと行ってしまわれた。更に2週間ほどたった金曜日、「月曜日はテストをします。この本を読んでらっしゃい。」と全員に仰せられる。よ、読んでらっしゃいって、あぁた、一冊の分厚い本じゃないですか・・・

手渡されたのは、スタインベックの「Travel with Charlie」でありました。1960年代の「アメリカを探して」と副題がつく、スタインベックのロードトリップもので、愛犬のプードル、チャーリーとともに、ドン・キホーテの馬に因んで「ロシナンテ」と著者が名づけたキャンピングカーで、ニューヨークから西海岸カリフォルニア、スタインベックの故郷であるサリナスに辿りつき、再び大陸を横切ってニューヨークへ帰る1万マイル(16000キロ)の旅を綴ったものです。

クラスで既に音を上げがちなわたしである。いかにして週末明けのテストに臨むことができるのか、おそろしや・・