ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

アリゾナの空は青かった:Mornig has broken

2018-04-21 22:09:55 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年420月日


登校初日の試験結果によるクラス分けも決まりESLコースの初日の授業は緊張の「Audio-Lingual」である。読み、読解、質問の受け答えです。

教室に入るなり驚いた。生徒用の机が黒板向きにズラリと並んでいるのは、どこでも同じだが、それぞれの机には目隠し用に前左右と仕切りがあり、ヘッドフォン、マイクが取り付けられていた。今ではどうということのない光景でしょうが、今から36、7年も昔のことで、わたしにと
って始めて目にする設備でした。

正面にある講師の机に仕切りはないので、生徒からは講師が見えるのである。生徒たちはヘッドフォンを通して講師の声を聞く。使用するテキストには、とある、架空の国が設定されており、その国の政治、経済、地理、文化等を学ぶ様式になっていて、興味深かった。

このクラスで印象に残ったのは、生徒の緊張感をほぐそうとしてか、授業の初めには毎回必ず講師がPop musicを流してくれることである。これはかなり嬉しかった。様々な国から語学研修に留学してきている生徒たちにとって、Pop musicは世界共通の言語とも言えよう。わたしのみならず、他の生徒たちもこれである程度気分的にリラックスできたのは間違いない。

講師はMr.Jensen。 30代前半と思われ、アメリカ人にしては小柄であったが、なかなかのイケメンではありました。一度わたしは、授業も終わって彼が後片付けしているところへ行き、
「朝の音楽、リクエスト可能ですか?」
「Yes, you may」

そうして、翌日ヘッドフォンを通して流れて来た音楽は、わたしがリクエストしたものでした。「クラスのyukoのリクエストです」と前置きして、わたしがAudioクラスにいる間、この曲を何度も流してくれたのでした^^
 
何の曲かって言うと、キャッツ・スティーブンスの「Morning has broken」。
大阪にいた時分からテレビこそ持たなかったが、音質のいいステレオには目がなく、新しいLPレコードを購入するのが楽しみのひとつだったかな?

そのたくさんのLPがある中で、たった一枚選んで、アメリカ行きの旅行カバンに入れたのは、ジョルジュ・ムスタキでしたが、キャッツ・スティーブンスも、この歌を始め、「Peace Train」 「Father and Son」, 「Oh Very Young」など、あの頃とても好きな歌でした。

この歌をわたしはもう一度、今度はポルトガルで耳にするのでありました。

我がモイケル娘がOporto British Schoolの小学部に入っていた頃です。いつものように、午後3時半の授業が終わる時間に合わせて車で迎えに行き、その帰りに彼女が突然「今日学校で習ったよ」と車の中で歌いだしたのです。
    
     ♪Morning has broken like the first morning
      Blackbird has spoken like the first bird      
      Praise for the singing, praise for the morning
      Praise for the springing fresh from the Word

おお!それは母が好きな歌であるぞ、と勿論はしゃいだわけだが、「キャッツ・スティーブンスの歌を教えるなど、学校もなかなか進んでるではないの^^」と思いましたら、この歌はイギリスの古いフォークソングで、賛美歌444番にあるのだそうです。
    
    世のはじめさながらに 朝日照り 鳥歌う 
    讃えよ 新しき歌を 讃えよ 新しき朝を

とでも訳せるのでしょうか。

歌ひとつとの出会いをとってしても、こうして世の中のことは連鎖になってるのだなぁ、と思わされたものでした。



アリゾナの空は青かった【5】:おどろき桃の木さんしょの木

2018-04-09 15:38:05 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月9日

アリゾナ大学は、ソノラ砂漠にあるツーソンの町に位置する。
考古学、天文学でも世界に名を馳せる大学だというのは後で知ったことである。北へ160キロのところには、州都フェニックスがあり、南へ100キロほどソノラ砂漠をつっきると、やがてメキシコ国境、ノガレスにぶつかる。

わたしの大学での第一日目は、ESL((English as a Second Language)クラス編成の試験であった。

大学のキャンパスはNorth 2nd Avenueをまっすぐ行ったつきあたりにあり、徒歩で7、8分だ。初日朝、シャワーを浴び、すぐそばにあるマーケットで前日買い入れたコーンフレークスにバナナの輪切りと牛乳を加えての朝食を終えた。8時過ぎ、「いよいよ始まるぞ!」とわたしは興奮で高まる胸をおさえ、キャンパスに向かった。

広いキャンパスの入り口近くの一角に、ESLセンターの建物はあり、そこの数箇所の教室での試験である。留学生はメキシコ、ブラジル、ベネズエラなどの南米からのみならず、ヨーロッパからも来ていた。そして、当時のオイルマネーを使ってのアラブ諸国からの留学生のなんとまぁ多かったことか。


1月だと言うのに、上半身裸でブーメランに興じる学生。下はWikiから。現在のキャンパス内。緑が増えた。


受験票を渡されてウロウロ教室を探し回り、無事時間いっぱいに試験を終えて廊下に出てみると、各国のグループがかたまってお互いを紹介しあったりして、廊下は人だかりでにぎわっていた。大学ではまだ知っている人が誰もいないわたしは、廊下の片隅でそれらの様子を眺めていた。

すると、「あ、あれぇ~、まさか・・・まさか・・・」日本人グループの中に見覚えのある顔が見えたのだ。

そんなはずがあるわけもない、と当惑の面持ちで、念のためにとその日本人が固まっているグループに、そぞろ近づいてみた。
「ほ、ほ、ほ、ほんざわちゃん!!」

このときの驚きたるや、推して知るべし!大阪のオフィスで退職するまでの6年間を同じ事務所で共に仕事をして来た営業マンのら「ザワちゃん」(あの頃、ビアハウスにも登場している)と呼ばれていた同僚がいるではないか!

なんでやの?なんでザワちゃんがここにおるんよ?おどろき桃の木山椒の木です!
あまりの驚きに人目も構わずみぎて人差し指で彼を指し、「ザ、ザワちゃん!」と日本語で叫んでしまったわたしでありました。

実は、わたしは12月のボーナスが出るや即座に退職し、大阪のアパートを引き払って渡米するまで、横浜のおば宅に居候して、羽田空港から飛び立って来たのであるが、ザワちゃんはと言えば、わたしのすぐ後に退職し、日を違えて渡米して来たのこと。

しかし、広いアメリカやのに、なんで、なんで同じ大学やのよ・・・それをさて置いても、一緒に会社で騒いだ間柄なのに、なんで一言も「ボクも同じとこに留学すんねんで~」と言わんかったのよ・・・

と、このように、大学第一日目からして、波乱万丈の兆しで我が大学生活は幕開けとなったのであります。

アリゾナの空は青かった【4】:パブリック・エネミーNo.1の家

2018-04-05 18:59:36 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月5日

「927 North 2nd Ave.」は実は知る人ぞ知る家であった。

アメリカで「デリンジャー」と言えば知らずもがなの人物である。
アメリカの大恐慌時代、「プリティ・ボーイ」「ベイビー・フェイス」の、映画でもお馴染みの名だたる手下を従えて、各地の銀行を荒らしまわり、捕まっては脱獄してFBIに「Public enemy No.1」と指定され、多額の懸賞金がかけられた。シカゴでFBIと銃撃戦を交え、31歳で最後を終えた銀行ギャングだ。

ジョニ・デップが映画「パブリック・エネミ-ズ」でデリンジャーを演じている。

デリンジャーは逃亡中の一時期、この「927番地」の家を隠れ家にしており、1934年1月にここで逮捕されている。もちろん、その後再び脱獄を図るのだが、なんともはや、あまり名誉な歴史を持つ家ではないのだが、ロブはかなりご自慢の様子であった。

「どこがデリンジャーの部屋だったのよ?」なんてわたしは聴かない。デリンジャーの怨霊に取り付かれでもしたら、わたしのアメリカ生活の夢は悲惨なものになってしまうではないか。

参考がてら、下は1930年代の927 North 2nd Ave。 敷地の周りに囲いがある。

 

こちらは1978年にわたしがハウスシェアリングした当時。囲いが取り払われているが、
Wikiより

ネットで見つけた現在の927番地は再び囲いが作られ両脇の木も取り払われている。

Wikiより

わたしの部屋は玄関ドアのすぐ左、表通りの庭に面した大きな窓のある広い部屋である。

アーリー・アメリカン調の古い家具とその家具の上にかけられてある大きな長方形の鏡、そして木製のベッドが備え付けられていた。
この部屋をデリンジャーが使用したとは考え難い。通り向きの部屋で窓も大きいし、通行人に見られることもあるからだ。

窓を開けると、手がかけられたことがないと分かる大きなグレープ・フルーツの木があり、手を伸ばすとたわわに実った果実をそのままつんで食べることができた。


住人は、友人のロブ、アメリカ人でアリゾナ大学男子学生A、そしてツーソンの小さなカレッジで歴史の講師をしているジョン、それに新参のわたしと4人である。

玄関口のドアを開けるとすぐにある、暖炉つきの大きなリビング、それに続くダイニング・ホール、その右横に台所、左横にバスルーム。電話電気水道は、使おうと使うまいと全て共有で月末に均等負担。

夜ともなると、時折4人が暖炉を焚いたリビングに集まり、ギターを爪弾いたり本を読んだり、テレビを見たりと、それぞれ思い思いのことをした。ツーソンでは、冬でも気温が20度近く上がるとは言っても、夜は結構冷えるのである。だからセントラル・ヒーティングが入っていても暖炉を炊くことがある。

わたしの記憶に残るツーソンの屋内の灯りは、柔らかくやさしい。見知らぬもの同士でも一つ屋根の下で生活し、週末の午後や夕方に申し合わせることもなく自然にリビングに集まり、それぞれ好きなことをしながら流れる時間を共有する。

FBIをして、「パブリック・エネミー・ナンバー・ワン」と呼ばれたデリンジャーの隠れ家であったとしても、わたしが住んだ1978年の「Tucson North 2nd Ave.927番地」は少なくとも平和だった。 

アリゾナの空は青かった(3):North 2nd Avenue 927番地

2018-04-03 12:01:05 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月3日

「やぁ、ひさしぶり。」と空港で再会したロブに、
「今、3人でハウスシェアリングやってるんだけどね、一部屋空いてるよ。うちへ来ない?」と持ちかけられたわたしは、一も二もなく「もちろんそっちへ行く!」と即答。
*ハウスシェアリング⇒一軒の普通の借家に家族でないもの同士が数人で住むこと。

まだあちこちで、「男子寮、女子寮のひと~」と叫んでいる迎えの学生に、
「あの、すみません、寮の予約をしてたんですけど、ここでキャンセルしますぅ。」と、初っ端からドタキャンしたわたしであった。
もともと何かと小さいいざこざがありそうな女子寮にはあまり入りたくなかったのである。しかし、ロブがツーソンにいるとは言え、彼はいつまた他国へ移動するかわからない風来坊ではあるし、ハウスシェアリングの話などツーソンに到着するまで聞かされていなかったのだ。

「大丈夫?」とでも言いたげな迎えの学生を後に、わたしはかつてイギリスまで一往復したものの、まだその真っ白さを損なっていない、我が全財産ともいえるサムソナイトの旅行かばんをズルズルひきずって空港外へ出た。

そして、そこに見たのである。ロブが手紙で「買った」と自慢していたイギリス人の愛車、中古のフォルクス・ワーゲンを。
当時まだ運転免許など持っていなかったわたしは車のことなど知る由もなかったが、その素人目にも明らかにポンコツとわかる代物であった。

「これ、フォルクス・ワーゲンどころか、あぁた、ボロクソ・ワーゲンだね。」と、笑い転げる乗客のわたしに気を悪くした友ではあるが、とにかく走りました(笑)

ツーソンの市街を走りぬけ、着いたところが、「North 2nd Avenue 927番地」



家が通りに面しているものの、玄関ポーチは通りから7、8メートルは入る。サンフランシスコやN.Yの家々とは少し趣の違った四角で白い大きな一軒家であった。わたしのツーソン第一日はここから始まったのである。




アリゾナの空は青かった(2)ツーソンに降り立つ

2018-04-02 22:28:28 | アリゾナ・ツーソン留学記´78
2018年4月2日


Wikiより。ツーソンの町、ダウンタウン


ツーソンはTucsonと書き、インディアンの言葉で「暗い山の麓」と言う意味だ。一年の360日が晴天の日の、砂漠にあるオアシスのような学生の町である。

4、5月から10月までは夏の季節になり、平均気温は37度。初めてツーソンを訪れる者は、必ず「夏は路上のアスファルトの上で目玉焼きができる」とのジョークを聞かされるのである。

太平洋を越え、ロス・アンジェルス経由でローカル便に乗り換えて、そのツーソンに降り立ったのは、1978年1月。1月でも気温が時には20度くらいまで上昇することもあり、ここに住む異国人は、見知らぬ土地にいて寒さゆえ襲われる孤独感からは、少なくとも救われることになる。

さて、空港を出るとアリゾナ大学の世話役寮生である男子学生たちが数人、その日、東京から到着した日本人留学生を出迎えに来ていた。その日は何人くらいの留学生がツーソンに到着したであろうか、今のわたしの記憶にはない。何しろ自分のことで精一杯だったのだ。

「男子寮!」「女子寮!」という呼び声が飛び交う中、迎え客の中にわたしは知っている顔をみつけた。
7ヶ月ぶりで再会するイギリス人のロバート・ギアこと、ロブである。

ロブはバーミンガム出身で、イギリスの大学を卒業後、お役所に2年ほど勤めた後、単独で世界一周を試みていたバッグパッカーである。イギリス本国からフランス、ドイツ、イタリア等のヨーロッパ諸国を経て、トルコ、インド、ネパール、タイ、香港から日本へ渡ったと聞く。

行く先々で英会話学校で英語を教えながら、そこに数ヶ月滞在し、旅費ができたところで再び移動する、という無銭旅行をしていたのである。当時は、今のように誰でも手軽気軽に外国旅行が出来るような時代ではなかった。そして、若者たちは普通は例外なくお金がなくて、それでも未知との遭遇や冒険心に 駆られそれを振り払うことができない者たちは、「無銭旅行」という手立てに出たのだった。

ロブもそのひとりで、喘息という厄介な連れと共にボロボロの旅行日記帳を肌身離さずの「世界一周」実施中であった。