読書の記録

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革命前夜

2018年04月04日 | クラシック音楽
革命前夜
 
須賀しのぶ
文芸春秋
 
 ふんだんにクラシック音楽のことや演奏風景が出てくる。クラシック音楽が好きな人ならば、この小説は音楽映画のような没入感を味わえる。しかもでてくる作曲家の名前がすごい。バッハやベートーヴェンやメンデルスゾーンならまだしも、フランクやヤナーチェクといった渋いところまで登場し、さらにはラインベルガーまで出てくる。ラインベルガーなんて本国ドイツ以外では忘れられた作曲家だが、彼のオルガンソナタの演奏シーンなんかがてらいなく登場するのだ。
 しかし、この小説は「蜜蜂と遠雷」のようにクラシック音楽がメインテーマの小説かと言われれば、必ずしもそうではない。
 
 
 この小説の見どころは、「末期の東ドイツを体験した日本人留学生の物語」というものだろう。舞台は1989年前半の東ドイツである。現代史に詳しい人ならばこれだけで十分にピンとくる。
 
 西ドイツ・東ドイツというのもだいぶ歴史の世界になってきた。現在のドイツはメルケル首相がリーダーシップを発揮してEU全体を引っ張っているが、1990年までは東西に分裂した国だった。東ドイツは社会主義国だった。東ドイツの国民が資本主義国の西ドイツを訪問することは許されなかった。
 
 東西統一後、東ドイツ時代の情報公開が進み、そこが異常なまでの監視国家であったことが広く知られるようになった。この監視は、シュタージ(秘密警察)と呼ばれる監視者およびIMと呼ばれる密告者による仕組みだった。国家を批判するもの、資本主義に触れるもの、西側諸国に近づくものはすべて危険人物とされた。
 
 シュタージもIMも、自分がシュタージやIMであることを他人に漏らしてはならない。家族同士でも秘密である。だから、誰がシュタージやIMなのかはわからなかった。そして実は国民の大半がそうだったのではないかとされている。お互いにお互いが監視員だと知らずに監視しながら生活を送っているような、そういう社会だった。監視し密告する人間が実はべつの誰かに監視され、密告される世界だった。NHKの「映像の世紀」では、市民の隠し撮り映像や、留守宅に忍び込んで手紙をチェックする密告者の記録映像が紹介されていた(なんでこんな記録が残っているのか。これこそIMを監視したIMの記録ということか)。
 
 この小説は、そんな東ドイツの音楽大学に留学した眞山柊史を主人公にした物語である。東ドイツは国の体制としてはそういうダークなところであったが、一方で文化芸術の面において、特にクラシック音楽においてはたしかに聖地だった。なにしろ「音楽の父」バッハがいたところだ。だから音楽留学生は多い。ここには、ハンガリーやベトナム、北朝鮮からの留学生も現れる。そして東ドイツに生まれ育った音楽を専攻する学生が登場する。こんなクラシック音楽の群像青春ドラマの道具立てが揃っているのに、ここは監視と密告の国であり、国中を疑心暗鬼が覆っており、つねに警戒と不穏の空気が絶えない。このあたりの不気味さは「1984年」に通じる。
 
 そんな東ドイツにも民主化運動の波がくる。物語後半は、登場人物たちもこの民主化運動の渦中となる。小説のタイトル「革命前夜」。まさに社会主義瓦解前夜の物語である。
 
 
 物語を追うに従って緊迫が増してくる末期の東ドイツにあって、主人公眞山君も、他の登場人物も、つまり作者が克明に描いたのは音楽の力である。この暗い世相にあって人々は、バッハに、ベートーヴェンに、ラインベルガーに希望を見出し、安寧を取り戻し、精神を高揚させる。音楽のときだけ、イデオロギーは霧散する。監視するものもされるものも、音楽の共有だけは純真だ。むしろ、東ドイツという社会空間だからこそ、音楽は純化された存在となったのかもしれない。宗教に厳しい共産圏の国にあって、音楽は東ドイツ国民の宗教的支えだったのだろう。カラヤン率いるベルリンフィルの西ドイツ的黄金の響きとは無縁な、厳粛で崇高な東ドイツの響きが、文字からも聞こえてくるかのようだ。当時の東ドイツにはクルト・ザンテルリンクやフランツ・コンヴィチュニーといった指揮者、シュターツカペレ・ドレスデンやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団といった交響楽団があって通に好まれていた。表面的にはきらびやかではないが、いかにも内側から抉り出すような音を出す。魂の叫びといったら陳腐だが、文字通り東ドイツから抉り出した音だったんだなと思う。ベルリンの壁の崩壊は1989年11月、今年で29年目になる。
 
 
 

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