読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

「空気」の研究

2008年07月28日 | 日本論・日本文化論

「空気」の研究---山本七平

 「空気のトリセツ」でもバイブルのように紹介されていた山本七平御大による「空気」論の本命。KYに先立つ30年前の昭和52年に発表されたものだが、おそらくこれを凌駕する「空気」論は、今に至るまで登場していない。それくらい、「空気の研究」は凄みがある。
 惜しむらくことに、「空気」や、それを無力化する「水」の説明として、当時の世相や社会事件を事例に扱っており(イタイイタイ病や自動車排気ガス問題。宮本共産党時代やロッキード問題など)、文字通り、この時代の社会風潮の「空気」を知っていないと、いまいちピンとこない部分もある。ただ、事例こそ古くなれど、その基盤となる論考の磐石さは、たとえば現在の環境問題における狂騒などが、この本が示す指摘から一歩も外を出ていないくらい、鋭い。

 以前「社会で優先されるのは「真実」ではなく、「真実はこれということにしておこう」という社会の合意のほう」といったことを書いたのだけれど、これこそが「空気」なのであって、で、「そのときの社会が何を優先させたかったか」は、全くロジカルシンキングとも経済学とも異なるところから出てくる。言うまでもなく、この「優先させたいもの」は時代と状況によって異なる。70年代は地球は寒冷化することが「真実」で、今は地球が温暖化することが「真実」である。小泉純一郎時代は「実力主義」が真実であり、それが数年後には「弱者に基準」が真実である。ぎちぎちの偏差値教育が問題と銃弾されて幾星霜。ゆとり教育は、いあまや諸悪の根源とされてしまった。まことに真実とは脆いもので、おそらくは、このちょっとした「揺らぎ」こそが日本という文化・風俗が持つ特有なものだろう。この点について本書で指摘していることは日本が古来もつ「アミニズム」に起因するということだ。つまり「森林の思想」である。

 「砂漠の思想」すなわち一神教では、真実は常にひとつであり、絶対的基準である。それ以外のものはすべて相対化される。それに対し、「アニミズム」は絶対が多数であり、つまり矛盾が同居し、そして矛盾したまま受け入れられる。これは西田幾太郎の「絶対矛盾の自己同一」思想に代表される。

 その究極の絶対矛盾として、本書では、戦前の日本人による「ダーウィンの進化論」と「現人神としての天皇」をなんのためらいもなく同居させていた日本人の精神構造を見る。著者によれば、当時の日本人は実はみんな「天皇は人間である」ことを知っていた、というのである。そして、「ヒトはサルから進化」したことも許容していた。で、「現人神」を祀っていた。神学的見地からのダーウィン論争が未だに続くアメリカからみれば、奇奇怪怪としか言いようが無いに違いなかったようだ。「ひとまずそういうことにしておこう」という留保を多重に漂わせながら、事を進ませる日本人の能力は奇蹟といっていいかもしれない。

 本書は、こういった日本に顕著な「空気に支配されやすいアニミズムな規範」をどちらかというとネガティブに見ているのだが(なにしろその「空気」が日本を戦争と破滅の道に追い込んだのだから)、ユダヤ人たちが、古来から「空気」の効用と弊害を認知して、その対処法をとり、そのひとつの結実が一神教的なシステムに基づく生活規範(我々日本人から見れば窮屈極まりない)だとすれば、そこまでしなければ「空気」に対抗できないということである。そして、そのような絶対主義がまた、時を経ることによって手段と目的が逆転するような危険性をはらむことを本書は、ルターの宗教改革後の聖書主義の陥った罠などを参照しながら看破している。

 本書の最大の意外なる特徴はこうした厄介かつ重大な「空気」なるものを「じゃあどうすればいいのか」という点が、特に明確に示されていないことだろうか。「空気」任せもだめ。「空気」に抗うのもだめ。
 あえていえば、“「空気」とハサミは使いよう”といったところか。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この世界の片隅に(中) | トップ | 父・宮脇俊三が愛したレール... »