読書の記録

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こんとあき

2014年03月27日 | 児童書・絵本

 こんとあき

 林明子

 絵本である。このブログでは、絵本をとりあげたことはまだなかったはずだが、ちょっと面白く、なかなか感じる内容だったのでここにとりあげてみる。

 「絵本」と呼ばれるものの中で、その多くは確かに「子供」を対象としたものだ。しかし中には子供だけでなく明らかに「大人」を意識したもの、あるいはもう完全に子供は忘れて「大人」を中心読者と考えているものもある。
 よくできた絵本は、「子供向け」と侮れない。単なるひとつの解決や結論、二元論的な善悪や悲喜に終始せず、一種の諦観、あるいは無常とでもいえるような重層的な読後感を残す傑作が多い。
 この類で僕が学生時代に触れてたいへん感銘を受けたのがシェル・シルヴァスタインの「大きな木」で、最初は先輩から口頭であらすじだけ聞き(また、その先輩の語り口が巧かったせいもあって)、そのコトバだけで思わず涙が出そうになり、あわてて本屋で探した。その後マスコミが紹介したりして、いまや「大人向け絵本」のスタンダードレパートリーである。
 日本の作家でいえば佐野洋子「100万回生きたねこ」がよく知られている。

 さて、ここでとりあげるのが「こんとあき」。作者は林明子である。もっとも林明子については、筒井頼子との共作による「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」のほうがよく知られている。いずれも長年に渡って支持されている絵本だ。
 「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」も、日常の中の子供のわくわくどきどきがシンプルなストーリーで描かれ、舞台となる世界の大きさも、物語の進行のスピードもきわめて常識的だ。荒唐無稽なところもなく、万人に通じやすい。
 これらに比べると「こんとあき」は、なかなか奇妙で野心的である。子供に読み聞かせてみたものの、数ページ先からの意外な話の展開にあっけにとられてしまった。
 が、なかなかどうして、個人的には「はじめてのおつかい」や「あさえとちいさいいもうと」を大きく凌ぐ感銘を残してしまった。これは子供にも十分に面白く、しかし、まったく違うところで大人にも強烈なメッセージを放っている絵本なのである。

 ここからはネタばれである。

 ストーリーをはしょって説明すると「あき」という4-5才くらいの女の子がいて、おばあちゃんにつくってもらった大事なきつねのぬいぐるみの「こん」の腕がほころんでしまい、それをおばあちゃんに直してもらうために電車に乗っておばあちゃんの住んでいる町まで行く、というものである。
 が、「こんとあき」を読んだ人ならば、これが何の説明にも本書の特徴を示しているわけにでもなっていないとすぐにわかるだろう。

 では、これは4-5才くらいの女の子「あき」と、きつねのぬいぐるみ「こん」の「ロードムービー」である、といえば、当たらずも遠からずではないだろうか。
 よくできた「ロードムービー」には、ある種の人生の葛藤や試練、そしてそれを超克して到達する心境というのが凝縮されて描かれていたりするが、「こんとあき」にもまさしくそれがある。
 「あき」は「こん」によって育ち、「こん」に守られ、率いられていく。しかしやがて「あき」は「こん」を抜かなければならなくなり、「こん」を助けなければならなくなる。そして遠からず「あき」は「こん」を必要としなくなり、独り立ちし、別れなければならなくなるところまで気配を与えている。

 「こん」によって守られてきた「あき」が自分で歩まなければならなくなる転機が“砂丘での出来事”である。
 おばあちゃんの住む町の駅まで着いたものの、おばあちゃんの家に行く前に砂丘に行ってみたいと「あき」は「こん」に言う(今更補足すると「こん」はぬいぐるみだが、自分で立って自分で動き、しゃべります。)。そして「こん」と「あき」は砂丘に立つ。この部分、見開き2ページで広大な砂丘の明るい光景が広がる。
 だが、この砂丘で「こん」は野良犬にさらわれ、砂の中にガラクタといっしょに埋められてしまう。「あき」は埋められた「こん」を助け出すが、ボロボロになっている。にも関わらず、「こん」は「あき」に“だいじょうぶだいじょうぶ”という。以後、「こん」は「あき」に何を尋ねられても小さな声で“だいじょうぶだいじょうぶ”としか言わなくなる。この“だいじょうぶだいじょうぶ”はことあるごとに「こん」が「あき」に言ってきたセリフなのだが、ボロボロになった「こん」は、そう呟く以外に「あき」に対して何もできない。だが、「あき」は「こん」を背負って夕闇の砂丘を下りていく。ここがまた見開き2ページで描かれるのだが、このシーンによって、「あき」は「こん」に依らず人生を歩んでいくことが示唆される。広大な砂丘は世の中そのものであり、社会であり、その後の人生のメタファであろう。

 生まれたときから「あき」につきあってきた「こん」はボロボロになったものの、おばあちゃんの手によって再び新品同様のぬいぐるみに戻る。が、新品に戻った「こん」は、言わば「普通のぬいぐるみ」に戻ったことの象徴とも見える。
 困難を前にした「あき」が「こん」の力を借りなくても自分で「だいじょうぶだいじょうぶ」と思えたとき、「こん」は安心して、喋りも立ちも歩きもしない普通のぬいぐるみに戻るのだろう。


 


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