読書の記録

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日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で

2014年03月19日 | 日本論・日本文化論
日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で
 
水村美苗
 
 
7年くらい前に刊行されて、ずいぶん話題になった本だが、ここに書かれてきたことがいよいよ現実化してきたような気がする。
 
 
さいきん、韓国の日本海表記問題とか、従軍慰安婦問題の西欧諸国でのチェアアップ運動が盛んである。そして、実際に欧米の議員やNPOがこれに呼応して動くような例が出てきている。
 
これが意味していることは、この問題について西欧諸国の議員やオピニオンにロビー活動を行い、そして少なからず相手を動かすくらいまでの「英語力」を持つ人材が、韓国で確立してきているということである。
 
このようなロビー活動において、日本はこれに比肩するだけの人材がどれくらいいるのかとなると、残念ながらなかなか心もとない。ビジネス商談ならともかく、このような自国と相手国の政治・外交・歴史観・価値観・倫理観を必要とする話題で相手と会話し、説得し、交渉し、相手に行動を起こさせるだけの「英語力」がある人材となるとだいぶ限られるような気がする。
 
 
  日本は、先進国の中でも、極めて英語ができない国とされる。なにしろ、他の国が日本を語るときに「あそこは英語ができない国」として紹介されるのである。
ずいぶん前に日本政府が海外むけに観光アピールしたビデオを見たことがある。そこでは英語通じます、ということを一生懸命アピールしていて、それはオトナがみんな片言で、でも親切に日本料理を説明したり、渡そうとしたチップを断ったりするものであった。そして一番最後に、小学生の女の子が極めて流暢な英語で道を教えるというシロモノであった。
 
中国や韓国も大多数の国民が英語ができないという点では日本と同じである。しかし、この2つの国は、とくに韓国は、国策で、つまり国費も投入して少数のトップエリートに英語はもちろんマナーやビジネススキルも含めた国際市場で通用するトップエリートの養成を行っている。欧米の大学へ留学させることを専門とする国立の高校があったりする。
最近の韓国のロビー活動の活発化は、こういった人材が実際に国際市場に出てきていることを表す。
 
 
一方、日本すなわち文部科学省は、この点でだいぶ出遅れていて、教育において英語は昔から「みんなそこそこできればいい」という方針で行っている。この「そこそこ」はながいあいだ「読み書き」のことであり、それも訓詁学的な、「過去完了進行形」みたいな妙な深堀にいくものだった一方、コミュニケーション手段としての英語に注目するようになったのはつい最近である。それも「そこそこ」。
したがって、ホントに世界と渡りあうような英語力を身につけるには、あくまで自分の意志で、自分の費用で、私学やスクールに通ったり、留学しなければならなかった。原則いまでもそうである。
 
もっとも、光明もある。
日本は、2020年の東京オリンピック開催をこぎつけた。
これもIOCをはじめとする様々なオピニオンへのロビー活動の成果であり、もちろん英語力は試されたはずである。
遅遅とはいえ、日本人の英語力は上がってきてはいるのだ。
 
だが、これと引き換えにして、かくして「日本語が亡びる」のはますます必至になってきた。
「日本語が亡びる」というのは、どこかの少数民族の言語が絶滅するのと同じような意味ではなく、著者が設定したところのこの世界にある言語体系、「普遍語」―「国語」―「現地語」において、日本語は「現地語」に堕していく、ということである。
2020年の東京オリンピックまでに、日本をどう「英語が通じる国」にするかは、けっこう重要な政策課題になっているはずである。
これまで「国語」であった日本語で書かれてきた重要なドキュメントは、これからは「普遍語」である英語で書かれ、日本の美意識を言語体系化した「国語」であった日本語は、「国語」としての尊重性を失い、ポピュラーな現地語に留まる。
 
日本語の粋を凝らして文章をつくってやろう、というモチベーションはなくなっていくだろう。そして、日本語が放っていた日本人の美意識観も軽視され、やがて消失していくだろう。
 
たとえば、日本語の「哀しい」。sadnessでもgriefでもmelancoliaでもsentimentalでもない、“よかれと思うとさびしい”というこのニュアンスは、言語の消失とともに通用しなくなる。
 
 
そんな言葉に汲々するより、国際市場で対話できる英語力をつけるほうが優先だろう。今の親なら、みんな子どもに期待するにはそちらであろう。
 
やむをえない気がする。言語は機械システムではなく、生態系なのだ、ということを改めて感じる。
 

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