読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる

2010年06月27日 | 日本論・日本文化論
「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる
 
竹内整一
 
「かなしい」という感情は、人間だけが持っているわけではない。たとえば、犬は、ご主人が去って一人残された時、あきらかに「かなし」そうな表情や仕草をする。ただ、これは犬にそのとき生じている特徴ある感情を、人間が自分の場合にあてはめ、「かなしい」と解釈して、あてはめているともいえる。もしかしたら、「悲しい」というのではなく、「不安」なのかもしれないが、とりあえずたいがいにおいて、このときの犬の目は「悲しい目」をしていると表現される。
 
人間にとって「かなしい」とは何か。特に日本人における「かなしい」を、過去から現代までの文芸作品、古典文学から童謡や当世歌謡曲にまで至って追跡したのが本書である。
まるで無限のバリエーションがあるかにみえる「かなしい」の中身も、つきつめれば本書のかなり冒頭部分に出てくる「力が及ばずどうしようもない切なさを表す言葉」ということになる。つまり、もはや自分の手に負えない、あるいは手の届かない領域を目の当たりにしたときの無力感とでもいったらいいのだが、ここに出てくる「切なさ」という日本語、むしろここに謎をとくカギがある。本書は「切なさ」という言葉をめぐる探究はほとんど出てこないのだが、実はここで語られる「かなしみ」は、限りなく「切ない」のニュアンスに近いものだ。
 
というのは、文学史の中であつかわれた「かなしみ」は単なる対象の喪失やなんらかの失敗によって引き起こされる「感情」、sadnessやgriefやmelancoliaもsentimentalももちろんあるのだが、それ以上に、そういった「かなしみ」を引き起こされた事態において、最終的にはそれを受け入れる、あるいは受け入れざるを得ないというところまでの感情こそが日本人の「かなしみ」なのである。多層的な物言いになるが、本書の表現でいえば「かなしみ」とは、まずは、「みずから」の有限さ・無力さを深く感じとる否定的・消極的な感情であるが、しかし、そうしたことを感じとり、それをそれとして「肯う」ことにおいてこそ、そこに「ひかり」(倫理、美、神、仏)が立ち現われてくる、肯定への可能性をもった感情」ということになる。もしくは「「かなしむ」以外のないことをきちんと「かなしむ」ことが、結局は、この世の仕組みをそう定めた神々の働きに従うことになる、だから、そこに「安心」というものがあるのだという考え方」である。
 
「かなしみ」の中でまずはあらわれる「否定的・消極的な感情」、これを引き起こした事態に対し、最終的にどう受け入れるかという点こそが、さまざまなバリエーションがあるところで、文学も宗教も芸能もこれを追い求めてきた。この受容性のあり方の模索が日本精神史と言ってもいい。「他人も同じだ」とか「それでも自然は変わらない」とか「人生そんなもの」とか「これも予定されてたことのうち」とか「これが将来の糧になる」とか。
 
で、日本人としてはこういうことを「無常」とか「もののあはれ」とか表現してきた歴史がある。これの現代語が「切ない」とか「空しい」であって、「もののあはれ」や「無常」を外国語で説明するのに多弁を要するのと同様に、「切ない」や「空しい」という感情のニュアンスを英語で説明しようとするとかなり困難な状況となる。
 
ちなみに本書ではないが、不条理ギャグ漫画家の榎本俊二は「空しい」ことを「よかれと思うとさびしいこと」と端的に説明していた。見事だと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マンガホニャララ | トップ | 嵐が丘 »