読書の記録

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人間をお休みしてヤギになってみた結果

2020年03月01日 | ノンフィクション

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ 訳:村井理子
新潮社

 コロナにかからないように大変で疲れるというより、コロナに狂騒する人間社会に疲れるのである。

 企業が時差通勤や自宅勤務を奨励すること事態は決して悪いことだと思わないけれど、当事者の話を聴くとなかなか厄介らしい。業務効率が悪くて面倒ということではなく、管理的なものが面倒なのだそうだ。これまでの就業規則や勤務記録ルールとの整合性をあわせるためにもっともらしい解釈法を出したり、労組と協議をしたりと、いくつもハードルがあるのだそうである。で、結局は通常の就業規則にあるところの有休や病欠、あるいは立ち寄りや直帰のルールを外挿的に使おうとするらしい。緊急事態だし前例のない事態なんだから、これまでの規則やフォーマットに無理にあわせようとしなくてもいいように思うのだけれど、給与の計算根拠とか労働基準法との兼ね合いとかいろいろあるのだそうだ。

 こういう規則を「ホワイトリスト」というらしい。対語は「ブラックリスト」である。日本は条文にせよ規則にせよ「何をして良いか」というのを決める。したがって、そこに当てはまらないものはすべて規則外なのである。つまり違反である。たとえば就業時間は「9時から18時までで間に1時間の休憩をとる」というのが規則として定められるとすると、8時にやってきて17時に還るのは就業違反になる。9時にやってきて1時間の休憩をとらずに17時に帰っても就業違反になる。

 これに対して「ブラックリスト」は「してはならないこと」を定める。たとえば「1日に8時間以下の勤務はしてはならない」とする。であれば、あとは何時から何時に就業しようと自由である。
 ホワイトリスト方式は、変革時や非常時に弱い、とは先ごろに読んだ「アフターデジタル」でも指摘されていた。

 そこに追い打ちをかけたのが小中学校の休校要請だ。要請だから拘束力はないというのは方便で、社会的抑制力はかなり強い。これは「学校に行ってはならない」つまりブラックリスト式の言い方で、「家にいないといけない」とは言ってない分まだマシだが、今度は学校を終了にするにあたっての様々な約束事がホワイトリスト式にわんさかあるため、学校側は年間の指導要綱分のプリントを用意したり、期末試験と通知表の辻褄をあわせたりしなければならなくなった。子ども達は山登りか海外旅行かというような荷物を持たされて下校しなけれぼならなくなった。学童における保育員の資格もホワイトリストだらけだし、学童施設の運営規約もホワイトリストだらけであり、急速に人員を受け入れる環境ができあがるわけがない。

 

 というわけで、人間であることに疲れてくるわけである。

 なんか癒される本でも読もうかなあと思う。こういう人様のありようにつかれたときは理系の本がよい。さすがにウィルスや細菌の話はごめんしたいが、人智を超えたところの話がよい。動物の話なんかもよい。

 と思って積ん読リストを眺めてたらありました。「人間をやめてヤギになってみた結果」。どんぴしゃりである。著者はトーマス・トウェイツ。この人はかつて「ゼロからトースターをつくった人」である。トースターの次はヤギかよ。

 表紙の写真をみると四足歩行の器具みたいなのとをつけてヤギの群れと戯れている。つまり、文化人類学的にヤギの生態の中にまざりこんで生活してみるというものなのかな、と思ったらさにあらず。これはアートなのである。
 この人がなぜ人間をやめてヤギになってみようと思ったのかは本書にゆずるとして、ヤギになってみようとする本気度が凄いのだ。四つ足歩行の器具づくりも、いくつも試作品にトライし、人体とヤギの体の根本的な違いに絶望的な壁が立ちはだかったりする。また、そのヤギのしくみをしるために業者にお願いしてヤギの体の解体にまで立ち会う。
 骨格だけでなく、内臓や脳までせまろうとする。その極め付けはヤギの胃袋を模した装置を外部にとりつけるところだろう。つまり著者は本当に牧草をはむだけで生きていこうとするのだ(人間の胃は牧草を消化して栄養分を吸収できないので、牧草だけで生きるには外部的な処理がいる)。

一方で脳の領域に関しては、人間とヤギがこの世界や人生(ヤギ生?)をどう認識しているかの最大の違いは時間軸を感じるところにあるのではないかなどと哲学的な命題に苦闘する。

  とにかくヤギに迫ること本気なのである。酔狂もここまで徹底すれば怪異である。

 つまり「ヤギとはなにか」を定義しているのである。で、その定義の中に人間である著者は無理やり入りこもうとしているのだ。のほほんと四つん這いになってヤギの群れに入っていりゃいいんじゃないの、などと思っていたら、これはアートを通り越した神に挑戦する実験なのであった。

 考えてみれば「ヤギとはなにか」というのはホワイトリストである。四つ足である。ツメが割れている。毛でおおわれている。毛は白い。両目の間が離れていて視野角度が広い。牧草から栄養を摂取する。群れで生活する。群れにはルールがある。これらの条件から外れるとそれはもうヤギではない。したがって著者トーマスくんは、脳も内蔵も骨も、もともと持っている人間のそれから無理やりヤギの定義にあてはめていこうと悪戦苦闘するのである。

 ぼくは「人間でない」ものが読みたい、といういわばブラックリスト的解放感を求めてこの本を手にしたのだが、その実態は「ホワイトリスト」の限界に挑むノンフィクションだったのだ。開放感なんてものは本書にはない。むしろ修験道に近い。何事も徹底するというのは神々しいものだなあと敬意を評するばかりである。


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