読書の記録

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落日燃ゆ

2016年04月21日 | 小説・文芸

落日燃ゆ

城山三郎

新潮社

 

日本経済新聞社刊の「リーダーの本棚」では、各界の経営者やリーダー50人が、座右の本や、人生で影響を受けたという本を挙げている。彼らが挙げる本には、当然被るものも出てくるわけで、必然的に、「経営者が座右とする本」ランキングができる。

  第1位は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」である。

  やはり、という感じ。ある年代以上のビジネスマンにとっては定番の1冊といえる(とは言え、文庫だと8冊に相当)。僕も読んでいた。

 

  で、第2位が何かというと、それがこの城山三郎の「落日燃ゆ」なのである。

 

  恥ずかしながら、僕はこの作品を読んでいなかった。聞き及んでいたのはタイトルくらいで、中身もろくに知らなかった。

  なので、あわてて、この新潮文庫を買って読んだのである。

  後半の東京裁判が始まってからは、途中でとめることができなくて、夜を徹して読んでしまった。

 

  広田弘毅が、実際に戦争責任としてどう評価されるべきかというのは、自分はまだそれを判じるだけの知識はなく、本当のところはわからない。

広田を断じた東京裁判そのものの正当性については、色々な見方があるのは周知の事実だが、一方で、本書のように、広田は軍部の「統帥権の干犯」に翻弄された悲劇の文官であり、不当にも戦争責任を負わされた、と言いきるのは、それはそれで極論なのかもしれないとも思う。

 

というわけで、自分としては本書を語るにあたって、広田弘毅をどう評価するかというのはさておき、やはりこの作品が「坂の上の雲」に次いで「リーダーの座右とする本」に挙げられたというところが興味深いわけである。 

それはやはり、戦後の日本のリーダーたちが、この「落日燃ゆ」描くところの広田弘毅の人となりに思うところがあったということだろう。

 

「坂の上の雲」が、明治時代における日本の近代化のために、大志を掲げ、栄光を目指し、ついには勝利をもぎ取る群像の物語ならば、「落日燃ゆ」は昭和時代において破滅にむかっていく大日本帝国の中で正義と清廉を守りぬき、ついに死する一人の男の物語ということになろう。ある意味で対極といえる。

広田の人生哲学は、「自ら計らわぬ」ことであり、「物来順応」に生きていくことであった。

出しゃばらず、ごまかさず、華美をきらい、出世欲もなく、誠実に執務を行う。しかし、故事に「桃李もの言わざれど自ずからみちを成す」とあるように、見ている人はちゃんと見ていて困難な局面で大役を担うようになる。そして、絶望的といえる状況の進行の中にありながら、あきらめず、透徹した態度で執務を行い、事後は言いわけも悪あがきもせずに、自分の運命を受け入れていくという、この態度。世のリーダーたちはこれに共感と感動をしたのだろう。確かに、「生き方の美しさ」という点では後光がさしているかのようにまばゆい。こういう人についていきたいと思うし、自分もこのように生きていきたい、と思うものである。

「坂の上の雲」のような志で人生を歩み、ふりかえれば「落日燃ゆ」のような態度を貫いていたというのが、パーフェクトヒューマンの姿ということであろう。

 

とはいえ、広田弘毅のありようは美しいという一方で、彼は軍部の暴走によって結局は初志を貫徹できず、悲劇的な結末を迎えたわけでもある。そして、この作品にはもう一人の主人公として吉田茂が出てくるわけだが、彼は戦前戦中戦後をふてぶてしくも生き抜き、何はともあれ戦後の日本の礎をつくった。個人的にはまったく好きになれないタイプではあるものの、現実のリーダーとしては、この吉田茂のような清濁併せ飲むタイプのほうが、本当の意味では結果を出すんじゃないかな、とも思ったりする。苦いことである。

 


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