日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか
竹内整一
筑摩書房
本書によると別れの際に発す「さようなら」という言葉、これのニュアンスに適した外国語訳というのがなかなか困難なのだそうである。
え、Good-bye じゃないの? といいたくなるが、以下のようなことらしい。
世界における別れ時のあいさつのコトバは以下3つにほぼ集約されるそうである。
①神の身許によくあれかし―――― Good-bye・Adieu・Adios・Addio
②また会いましょう――――See you again・Au revoir・再見・Auf Wiedersehen
③お元気で――――Farewell・アンニョンヒゲセヨ
なーるほどなあ。もちろん徹底なリサーチではないのだろうけれど、メジャーな言語はたしかに当てはまっている。
で、日本語の「さようなら」はたしかに①~③のどれでもない。
ちなみに、「さようなら」とは、本書によれば、文語生成的には「そのようなことであるならば」という意味合いになるそうである。現代においては実際の生活では「さようなら」はよほど改まった場でないと使わないコトバだが、「じゃあね」とか「それじゃ」みたいな別れコトバはしばしば口に出すようにおもう。
確かに「じゃあね」や「それじゃ」は、「そのようなことであるならば」と近い文脈を持つ。
「じゃあね」「それじゃ」「そのようなことであるならば」は、すべて指示語が入っている。何を指示しているのかといえば、それは場面の転換にいたった経緯についてである。――いま2人がいる。この2人はわけあって今まで2人で同じ時空間をすごした。しかし諸事情によりこの共同の時間は終わらせなければならなくなった。果たして2人は次の1人1人別個の時空間に事態を移していかなければならない。この事態の成り行きによってこのあと2人は別々になるね――というお互いの共有の感覚が「じゃあね」という言葉になる。
本書では、なぜ日本人が、この「ここに至るまでの時空間を一緒に過ごしたことと、事態のなりゆきによる別れを不可避のもの」というニュアンスの共有をもって、別れの挨拶とするのか、そもそもこのニュアンスにこめられた美意識とは何か、というのを徹底的に掘り下げて圧巻このうえない。
ここでその内容を繰り返してもしょうがないのだが、究極の到達点は、「こと」と「もの」という微妙な、しかし決定的に異なるニュアンスをさりげなく使い分ける我々のメンタリティに見いだせる。それは、一回性であり、そこに意思があることをこめている「こと」という言い方と、普遍性があり、人智を超えた力に身をゆだねる「もの」という言い方。この微妙な綾の中に我々は生きていること、その人生観に肯定を見出すことこそ、一神教の神をもたぬ日本人の魂の拠り所なのである。
つまり、「ここに至るまでの時空間を一緒に過ごした『こと』と、事態のなりゆきによる別れを不可避の『もの』」への想いの共有が、「じゃあね」ないし「さようなら」という一言に凝縮される。いやあ、深い深い。
最初の世界の別れコトバ3種類に戻れば、
①神の身許によくあれかし―――― Good-bye・Adieu・Adios・Addio
②また会いましょう――――See you again・Au revoir・再見・Auf Wiedersehen
③お元気で――――Farewell・アンニョンヒゲセヨ
②③はそれに類した日本語のあいさつコトバはある。該当が難しいのは①。ということは、「さようなら」は、「唯一神」を持たない日本人にっての①ということが言えるわけだ。
「さようなら」という改まったコトバは、現代のわれわれはなかなか口にしないが、「それじゃ」「じゃあね」とは頻繁に使っているわけで、ということは、この感受性は源氏物語のころから現代に至るまで、我々日本人に今なお強く根付いているのだ。