読書の記録

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なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?

2018年11月11日 | 芸術

なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?

岡崎大輔
SBクリエイティブ


 さいきん、ビジネス本の領域でアートのことに触れたものが次々刊行されている。つまり、エリートビジネスマンたるものアートの素養が無くてはダメなのだ、という問題提起である。

 そのためか、美術館にスーツ姿の人が増えたとか、そのために混んできてしまい、もともとの美術ファンから「にわか」などと毛嫌いされているとか、そんな話も聞く。

 アートと言っても当初は主に絵画関係のことを指していたが、その余勢を買って最近はクラシック音楽についてのビジネスマン向けの本も出るようになった。AI隆盛の今日、人間様の最後の砦がアートということなんだろうか。

 

 幸いにも僕は中学生のころからクラシック音楽が好きで、クラシック音楽が好きだと自動的に西洋芸術全般に興味が広がりやすい。絵画と音楽は芸術史的には連動していることが多いし、いずれも人間の表現行為だから、絵画にも音楽にも、保守と革新、王道と邪道、若書きと老境、破壊と創造がある。

 

 なんて言っちゃってるけれど、大学生のときに一生懸命背伸びしたというのが本当のところである。クラシック音楽が好きだったのは本当だけれど絵画方面はさっぱりであった。モネとルノワールの違いもわからなかった。大学生になってできた異性の友人がアート関係に関心を持っている人間で、見くびられたくなくて僕は一生懸命美術史の本を読んでみたり(美術出版社から出ていた「抽象美術入門」「現代美術入門」「世界デザイン史」を虎の巻にしていた。印刷はきれいだがお値段は学生にはなかなか優しくなかった)、都内の美術館に通ってみたりしたのだった。所蔵品が良いというので青春18きっぷで富山県立近代美術館や滋賀近代美術館に繰り出してもみた。若いって大事だ。

 その子とは残念ながらそれ以上の関係にはなれなかった(今でも立ち直れない・・)のだが、でもあのとき無理しておいてよかったと思う。エリートビジネスマンかどうかはおいといて、たしかにアートの会話をナチュラルにできる人とできない人では、人としての面白さが全然違う、というのが社会人になって二十年以上も経ったいまは経験的にわかってきている。アートの話題というのは人を試すところがあって、むこうからさりげなくふってくることもある。いちおう僕も切り返すと相手はおっという顔をする。当時の彼女に感謝しなければなるまい。

 最近奨励されているのが、画家の名前や背景など、付帯情報がなくてもその作品を読み取るVTSと呼ばれる手法である。製作者が画面上に投げかけたなぞなぞを解くような鑑賞方法はルネサンスから現代まで通用する。
 それはそれで大事な審美眼だと思うけれど、けれどやっぱり付帯情報があるほうが美術鑑賞は楽しい。美術館の音声ガイドのような細かい情報まで勉強するのは大変だけれど、「国」と「時代」をおさえておくだけでもだいぶ違う。これくらいの情報はふつうの美術館であれば案内プレートに書いてある。「国」と「時代」の手がかりさえあれば、たとえそれが知らない作者のものだろうといろいろ想像できることが広がるし(たいへんだったんだろうなあ、とかそんな作者の心情に心よせることもできる)、過去に別の美術館でみた同時代の作品や、同国の作品との相違を思い出したりし、それこそ世界史や他の分野の芸術史との連動も相まって自分のデータベースも充実してくる。


 ということなので、今でも西洋美術についてはルネッサンスから現代アートまでとりあえず大丈夫というか、まあ最低限の鑑賞や会話はできると思っているが、さてまったく音痴なのが東洋美術である。彫像も陶芸も書画もさっぱりだ。海外の流派だけ勉強しておいて足元の自国の文化についてないがしろにしてきたわけで右の人から怒られること必至だ。そんなだから楽天もセブンドットコムも使わずにGAFAのカモにされちゃうんだ、と今さら反省。


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