読書の記録

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イントロの法則80s 沢田研二から大滝詠一まで

2018年11月23日 | サブカルチャー・現代芸能

イントロの法則80s 沢田研二から大滝詠一まで

スージー鈴木
文芸春秋

 スマホ片手に、Youtubeでいちいち確認しながら読んでいたらまた徹夜になってしまった。こういう本は麻薬的な中毒性がある。

 僕が普段きいている音楽はクラシック音楽なのだが、世の中にある音楽の中でクラシック音楽の最大の特徴のひとつは「歌詞がない」ということだと本気で思っている(もちろんクラシック音楽の中には歌曲もオペラもありますが)。
 だから、ぼくの音楽に対しての鑑賞態度は「メロディやリズムや和声や音色の進行」を味わっているということになる。

 なので、クラシック音楽以外のジャンルの音楽を聴いている時も、原則として「曲」を味わっている。「歌詞」は頭に入っていないのである。
 だから、洋楽なんかは完全にインスタルメンタルのようなつもりで聴いている。僕は英語のヒアリングはからきしダメなので、歌詞の意味なんて聞き取れず、英語のボーカルに関しては「ああいう音がする楽器」として聴いているに等しい。

 問題なのはJ-POPなどの邦楽を聴くときだ。
 邦楽の場合でも僕は「曲」を聴いている。もちろん日本語だから「歌詞」が何を言っているのかわかるのだけれど、鑑賞として味わっているのは曲の進行の方であって、歌詞が何をどう言っているのか意味をたどることにはほとんど注意を払っていない。なんかもうそういう鑑賞態度で耳が出来上がってしまって、いまさら歌詞に集中することができない体になってしまっている。(したがって著者が前書で指摘した稲垣潤一「ドラマティック・レイン」にみる作詞家秋元康の革新性なんてのはまったく目ウロコだった)


 だから、この歌詞がいいんだよね! とか、勇気をもらって泣きそうになりました、という話はどうも共感が薄い。昔からそうで、80年代バンドブームのときも、原稿用紙に創作の歌詞を書くような同級生が何人もいて、文集に載せたりしていたが、はてさて、曲もないのに歌詞だけ書いてどうするんだ、などと斜めに観ていた当時の自分がいたのである。
 したがって、80年代のヒット曲でいうと、歌詞に特徴があるブルーハーツや爆風スランプよりも、X JAPAN(当時は単に”X”だった)とか聖飢魔Ⅱのほうが好きだった。曲の美しさや構成が圧倒的に違ったからである。プリンセスプリンセスやTMネットワークは確かに「曲」だけでも聴かせるだけのメロディとリズムを要していた。BOOWYやユニコーンは、当時一世を風靡していて同級生からCDを借りて聞いてみたりしたが、曲としては単調に思えてしまい、あまり気に入らなかった。本書によるとユニコーンのアレンジはそうとう技巧派のそれだったそうだ。気がつかなかったなあ。
 そしていつの時代でもサザン・オールスターズはたいへん聞きやすかった。何かの本で桑田佳祐は曲先詞後という作曲の仕方をする、というのを読んでやっぱりそうだったのかと納得した。本書でも指摘があるように、メロディやリズムが先にあって、歌詞をそれにのりやすいように押し込むのである。


 というわけで、僕が好きな邦楽は昔も今も「曲」がいいことが大前提で、となると必然的にイントロがすばらしい。本書の趣旨である「イントロがすばらしい80年代の邦楽」となると、これはもう僕の年代と嗜好にどんぴしゃりであって、書店で見つけて即購入。あくまで音作りの技術的側面にフォーカスしながら「イントロ」という極めて短い時間芸術に切り込むというコンセプトに多いに共感した。

 「ルビーの指輪」の、チャッチャッ、チャララーラ、ッチャチャッとか、「ギザギザハートの子守唄」の、チャラッラッラ、チャーラッとか、「そして僕は途方にくれる」の、ズチャチャッ、チャチャチャチャッ、「ワインドレッドの心」のチャーー、チャラーー、チャララー、チャラーラララーなど、音の数はミニマムなのにリズムの打ち方、コードの変容で、圧倒的な印象を残す。さらに音色の当て方にもいろいろな技法があり、80年代にはシンセサイザーとデジタルミキシングで可能性は無限に広がったから、様々なチャレンジがあって、この時代のイントロは、確かにご指摘のとおり、強く印象にのこる傑作が多い。本書ではニューミュージック的なものだけでなく、斉藤由貴の「卒業」や、松田聖子の「青い珊瑚礁」のようなアイドル曲もとりあげていて、なるほど確かに野心的な試みがされていたのであった。出色のものはあれから30年たった今でも記憶にこびりつき、イントロ一発でその曲どころか、当時よく聞いていたころの時代の空気、当時の自分の生活までいっきに惹起させる。イントロとは恐ろしい力である。(邦楽で最も好きなイントロは何かと聞かれた何と答えようか。レベッカの「friends」、Xの「Unfinished」、森昌子の「越冬つばめ」、YenTownBandの「スワロー・テイル」あたりか。)

 これらイントロのクオリティを左右するのが編曲家だということを僕は本書で初めて知った。
 というより、僕は編曲者というものが邦楽の世界においてそんなに重要な存在だったのか、というのをまったく知らなかったのである。作曲者の名前をチラ見するだけで、編曲者の仕事に注目したことがなかった。
 というのは、先に書いたように僕は普段はクラシック音楽を聞いているのだけれど、クラシック音楽というのは作曲家と演奏者しかいないのである。まれに編曲家が介在する場合もあるのだがむしろ例外といってよい。クラシック音楽では、どんな音色の楽器をあてるかとか、どんな序奏や経過句をつけるかも全部作曲家がひとりでやる。

 80年代の頃の僕は、歌謡曲なら歌い手に、バンドならせいぜいが楽器メンバーくらいまでしか関心が及ばず、作詞作曲は誰がやったのか、まして編曲家は誰なのかは関心を払ってこなかった。「曲」を主体に聴いていたのにその「曲」を誰が手掛けたのかは心及ばなかったのは、当時のこととはいえ大変な片手落ちであった。当時それに気づいていれば、さらに面白く音楽が楽しめたのに、といまさらながら思う。


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