ゼロからトースターを作ってみた結果
トーマス・トウェイツ 村井理子訳
新潮社
以前「カレーライスを1から作る」という本を紹介した。
日本のとある美大のゼミで行われたプロジェクトで、カレーライスを、米も肉も野菜も香辛料もすべて飼育や栽培からスタートさせて1年近くかけてつくるというプロジェクトである。
一方こちらは「トースターをゼロからつくる」である。あちらがイチでこちらはゼロだから、さらに後ろからのスタートということになる。
作者はロンドンの美大の学生である。美大というのはこんなことばかりやってるのか?
「カレーライス」との違いは大きく2つあって、あちらが複数班にわかれた集団プロジェクトであったのに対し、こちらは仲間が手伝うことはあっても基本的には独りで行ったプロジェクトということだ。
もうひとつの大きな違いは、あちらが野菜や肉や香辛料、つまり食糧生産が主眼であったのに対し、こちらは「トースター」。すなわち筐体や電気回線などの原料である鉄や銅やニッケルやプラスチックをつくりだすという点である。
食糧生産も人類の歴史ではあるが、鉄や銅や石油(プラスチックの原料)の抽出こそは文明発達の歴史そのものであろう。鉄鉱石から鉄を精錬する技術は古代ヒッタイトにさかのぼるとされるが、銅はそれよりも古い。一方でニッケルはずっと近代の18世紀になって抽出できるようになったと言われているし、プラスチックは19世紀になって登場した。
この銅→鉄→ニッケル→プラスチックという歴史の順番はそのまま生産の困難さの順番でもある。
ネタバレしちゃうと、著者の「ゼロからつくる」は、この難易度の順番でだんだん怪しくなってズルっぽくなってくる。最後のプラスチックなんかは、いちおうそれらしき生産プロセスを試みてもみるがうまくいかず、禁断の手に出ている。「カレーライス」のほうにはズルがまったくなかったことからすると、ツッコミどころはあるだろう。
とはいえ、本書の主眼、というかこのプロジェクトの真髄はそんなところにないのは百も承知である。
このプロジェクトの構想にあたっての意義は、著者も若者らしいピュアな思想を掲げているが、一連のプロセスの記録と、果たしてできあがった「トースター」の写真および実際の作動をみれば、我が現代社会のいろいろな矛盾が見えてくる。ポップアップトースターは廉価なものなら日本円にして500円で買える。しかし著者が「ゼロからつくったトースター」にかかったコストは15万円である。
しかも著者がいうように「見えないコスト」がたくさんある。それは精錬や抽出のために必要とする膨大なエネルギー資源だったり、原材料や加工品を長距離移動させる際のロスであったり、生産の過程で生じる環境汚染だったり、廃棄物や残留物の問題だったり、国境を越えた取引の問題だったり、産業構造と労働力の問題だったりする。どう考えても「500円」で済む話ではないのだ。
なんとなく「カレーライスを1から作る」に似ているコンセプトのようでいて、「ゼロからトースターを作ってみた結果」から見えてくるのはむしろ「ブラッド・ダイヤモンド」とか「不都合な真実」に近いのではないかとさえ思えてくる。
やはりゼロからつくろうとしたものが選りに選って「トースター」(それもポップアップ式の)というのが絶妙だ。多くの家庭にあるものでありながら、実は無くてもなんとでもなる。トーストが食べたければオーブンで焼いてもフライパンで焼いてもいい。しかしポップアップトースターという家電商品がある。しかも500円。それを世界中のヒトが使っている。
トースターには現代社会のあらゆる矛盾がつまっているのだ。
とはいうものの文章は軽快でユーモアにも欠かず、翻訳のうまさも手伝ってエンターテイメントのようにぐいぐい読んでいける。どちらかといえば「やってみた」のノリである。それでいて本書を最後まで読めば、廉価ショップや大手家電量販店で陳列しているポップでチープな家電を観る目が変わるだろう。SDGs学習の副読本としてもいいかもしれない。世の中の景色がちょっと変わることは間違いない。