読書の記録

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キャラクターメーカー-6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」

2009年08月16日 | サブカルチャー・現代芸能
 キャラクターメーカー-6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」---大塚英志


 著者はわりと毀誉褒貶の激しい人で、確かになんというか大学生が深夜酒を飲みながら討論しているような、もっともらしさとコジツケと主観と客観の泥酔状態みたいなところも少なからずあるような気もしているのが、一方でいろいろ面白い気づきも与えてくれるので、これまでいくつか読んできた。

 その中で、手塚治虫由来の記号化させた「属性」というやつと、田山花袋「蒲団」以降に見る私小説の系統の両局面から、キャラクターメイキングを見るという観点は、前作「キャラクター小説のつくり方」のときからなるほどと思ったものだった。
 ただ前作と違うのは、「キャラクター小説のつくり方」では、そういったキャラクター小説の粗製乱造に、作り手の怠慢を指摘していたのだが、本作ではそのこと自体にいいも悪いもない、という立場に微妙にかわっていることだ。大学でのゼミを元にしているという事情もあるのかもしれない。
 
 個人的には、いまどきのキャラクター群、その類型的な属性(著者曰く、その「属性」で検索タグがつくれるという)を消費することのカタルシスが主目的でありながら、それを言い訳するように私小説的な分別くさい衣をまとわせる昨今の氾濫ぶりはやはり怠慢というか、退廃ではないかという気もする。このような、ある意味「主人公の気持ちになって読みましょう」的な読書鑑賞の方法でもある主要人物への感情移入で読ませる(あるいは書く)ことに反旗を翻したのが今から四半世紀前に発表された筒井康隆の「虚航船団」であったように思うのだが、結局のところ時代は“キャラ立ち”や“萌え”に至ってしまった。

 記号の消費の心地よさに安住している限り間違いはないという安楽さにむしろ目覚めてしまったということだろうか。
 しかし、こういった「脱・物語」(昔っぽく言うと「ポスト構造主義」ですな)こそ真骨頂とするのが、Googleをはじめとする検索エンジンであり、「人は見た目で9割」「企画書は1枚」「つかみ」で「すべらない」時代であろう。つまり、「物語」という舞台となる世界があって前後の関係があって伏線とか駆け引きとかが用意されているようなしちめんどくさいものに関わる気力も時間もなく、その瞬間の快楽的な消費こそが優先される現実に我々は生きている。

 芸術は時代の先を行くとかつて言われていたが、昨今のキャラクター大氾濫は明らかに時代の落とし子であろう。

 では、次に何の時代がやってくるのか。

 それがいま、とても興味のあることだ。

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