読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

三位一体モデル TRINITY

2009年07月27日 | 哲学・宗教・思想
三位一体モデル TRINITY ---中沢新一


 大胆な省略というか、細部で間違っているかどうかより、だいたいあっていることを優先させたというか、超極太な三位一体の解釈である。もちろん、中沢新一はわかってやっている。

 キリスト教の教義の中核ともいえる「三位一体」はその通りの良さで、たしかに日本の日常でもメタファとしてしばしば使われる。が、キリスト教の「三位一体」は、決して、いわゆる「三人寄れば文殊の知恵」や「三本の矢の結束」といったものを意味しない。「父」「子」「精霊」それぞれに役割分担がある。

 この中で、もっとも理解が難しいのが「精霊」というやつだ。が、この存在が、本書でも述べているように、イスラム教で禁止されている「利子」というやつの存在を許しているそうな。
 本書では大胆に、精霊を「増幅を作用させるもの」と定義してしまったが、これだけで、なぜイスラム教で頑なに「利子」を否定したのか、までのインパクトはやはりわからない。

 もう少し掘り下げて考えてみると、「利子」というやつは、言わば「寝っ転がっていながらも儲けが生まれる」。本来、“労働(苦役)とその対価としての報酬”というのが原則であって、それこそが原理としての「父」と、可視化としての「子」の関係になるのだろうけれど、つまりそれだけでは世の中は進展・発展しないという人間の弱さみたいなものをキリスト教はなんとなく見抜いたのじゃないかね。“濡れ手で粟”的な幸運要素をチラつかせないことには、人は生きることにモチベーションを見いだせない、ということをどこかで確信し、こっそり教義の中に入れ込んだのではないか。つじつまを合わせるために、因果とは関係なく、人生では不幸になっちゃう場合もあるよというネガティブ側の要素もいれといて(ヨブ記ってそういうところあるよなあ)。

 そういう“突然変異的増殖”という期待があってこそ拡大発展のエネルギーは生まれ、現在の生態系になったことも、グローバルスタンダードになったことも言えるわけだ。だけど、あまり無節操に大穴が当たり続けても人心は荒廃するから、最終的な辻褄というか帳尻合わせは当然「父」によってあるのだろうか。

 今回は、酒がはいっているので、なんだかいいかげん。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この世界の片隅に(下巻) | トップ | 日本人とユダヤ人 »