わたしが花のように美しく可愛い紅顔の少年だったころ、ある美しい書物のなかで、さる粋人が酒の美学について語っていた。飲酒の作法や飲み方、酒の素晴らしさ、酒の歴史。すでに15歳にして日本酒の旨味を覚え、ビールの苦みを愛し、好きな食べ物といったら酒の肴みたいな料理や食材ばかりだった当時のわたしは、両親の心配をよそに、将来これから飲むであろう酒のかずかずに思いをいたし、小鼻と夢をふくらませていた。ワインって美味しいんだろうな。上等のスコッチって、どんな味がするんだろう。酒のある人生はなんと素晴らしいのだろう。
むかしから酒を讃美する書物は多く、酒を語る名文も多い。それらを探しだし目をさらすのに時間はかからないだろう。文豪と呼ばれるひとや、粋な作家たち。ランボーの詩のなかのビールのかおり。ボードレールの愛したアブサン。
わたしはほとんど酒浸りの半生をおくってきた。酒を飲んだこと以外に、この世で何をしてきたのか、あまり覚えていないくらいだ。20代で早くも脂肪肝をわずらい、それでも身体を騙しだまし、酒を絶やしたことはなかった。
そうやってさんざん飲んできて、いま言えることは、たったひとつ。
酒は、飲まないほうがいい。
まず、酒の作法とか、酒とのつきあい方とか、そういう綺麗事を言うやつは信用しないほうがいい。たいてい嘘だからである。
たとえば、適量を知りなさい、などと言うやつは、そもそも本気で酒を飲んでいない。酒に適量なんか、あるわけがない。これは飲んべえのたわごとであり幻想にすぎないのだ。ふだん酒を飲んでいれば、酒量はどんどん増えていく。しかし身体の耐久力は年々反比例して劣っていく。適量のラインがどこにあるかは、飲んで失敗して、はじめて気づくものである。しかもつねに変化している。だから適量を守るなどということが、そもそもできるはずはないのである。酒を飲むという行為自体が、飲み過ぎて後悔するという経験をかさねるに等しいのだ。
それから、ひとに迷惑をかけるな、などとほざくやつは、これまた本気で飲んだことがないか、よっぽど厚顔無恥で反省心が欠けているだけの人物である。信用するにあたいしない。じっさいに、飲み方にうるさいやつが酒場では嫌われ者だったり、もうすっかり飽きて帰りたがっている部下を相手に長話をして迷惑がられているのに何とも思わなかったり、その手合いである。ちゃんと反省しましょうね。
ただし、特殊体質のひともいないことはない。古い表現で言うと、うわばみみたいに、いくら飲んでもけろりとしている酒豪たちである。しかし、こういう酒豪たちは、やはり失敗するまで何トンも飲む。トラック1杯分、プール1杯分も飲んで、やっぱり失敗する。おなじことである。それにそもそも、こういう人種は酒代がかかってしょうがないので、気の毒なことに、めったに酔えない。いちばん酔いたい人種が、めったに酔えない。かわいそうなものである。
どんな麻薬中毒患者でもそうだが、中毒の度合いが酷いほど自覚が甘い。中瓶500mlもビールを飲んでおいて、さあもう1本、などと言うやつは、わたしに言わせればみな重度の中毒患者である。1リットルも飲んでどうするの? おいおい、もう適量は過ぎているよ。
というわけで、もしもあなたが下戸に生まれたのなら、それがいかに幸福なことかを知るべきである。ほんの少しなら飲める、というひとはなお素晴らしい。ちょっとだけ舐めて、あるいは1杯だけ。味を知ればそれでいい。それ以上に学ぶことや感動することなど、じつはほとんどないのである。飲酒というものは、中毒患者たちが言うほどのものではない。とるに足りないものなのである。
ただし、酒を飲む作法のようなものが、この世にまったくないというわけではない。
わたしの知るかぎり、たった1つだけある。それは別の機会に、あらためて語ろう。
次回にきたいします。