中国の古典のひとつ、易経はおもに、占いの本として知られている。
この易経といささかでもつきあったことのあるひとならば、その奇妙さに気づくことだろう。
その本のなかでつねに起きているのは変化だからである。そしてその変化のなかでとくに目につくのはパラドックスだ。
易経のなかでは、容易に主体と客体が入れ替わる。被害者について占ったのに、加害者の暗示が出てくる、というようなことがよくある。まったく逆さまの意味が顕われるのだ。
それから、意味も容易に逆転する。遅れる夫は凶なり(遅れてはだめだ)という暗示が容易にそのまま、遅く行ったほうがいい、という意味をもつ。しかも頻繁に。まったく正反対の変化というものが、ほとんどいつも顕われてくるものなのである。
占い師はだから、その変化がどう動くかを注意深く見つめることになる。一見主体について語られているものが、客体についてのことなのかどうか、右から左へ動くという暗示が、いつ左から右へ、に変化するかどうかを、秘かに吟味する。山澤損(損をする)という暗示の意味が、風雷益(得をする)を含まないかどうかを見きわめる。そして、そのダイナミックな変化を、パラドックスを、目の当たりにすることになる。
占い師はこうして、事象のある本質を掴む。世界が、自我を中心には動いていないことを。現実は、その場によって成るものであって、その場に有るものはみな互いに変化し影響を与え合い、我と他の区別はないのだということを知るのである。損をしたものが同時に得をしているのだということを、知るのである。不幸には幸福がふくまれ、幸福には不幸がふくまれる。男性には女性が宿り、女性には男性が宿る。晴れた空には雨の精が宿り、雨のなかには晴れが宿る。加害者が同時に、被害者であることを。傷つけたものが同時に、ふかく傷ついているということを。聖者が本質的により多くの悪をふくむことを、恐ろしい祟り神が同時に優しい恩寵の神であることを、悟るのである。
この世がパラドックスに満ちていることを、占い師は知るのである。
ところで、すぐれた詩人の才能が、そのパラドックスを丸ごと掴み、表現してみせるという荒技をやってのけることがある。
アメリカのポップ歌手、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の作品「ジョーカーマン(Jokerman・1983年)」が何を歌ったものなのか、いまだに議論にけりがついていない。ここには聖なるものと邪悪なもののパラドックスが、ジョーカーというキーワードの周りで鮮やかに表現されている。ただし、本人がどこまでこれを認識しているかは分からない。こういう歌詞は無意識のちからによって書かれるものだからだ。本人の表層意識が説明を始めたとたん、まったく貧弱なことしか考えていなかった、ということが詩の場合にはよく起こるのである。朝食の歌をつくっているつもりが、祖先の霊を崇拝した歌に仕上がった、などということがよく起こる。おなじようにディランの「愚かな風(Idiot Wind・1974年)」は国民の怒りの歌だと、当時アレン・ギンズバーグから絶賛されたが、あれはもともと離婚の歌にすぎなかった。しかしギンズバーグが間違っていたわけではない。本人の無意識がやっていることを、本人の表層意識があんがい把握していないことは多い。だからわれわれにはこの歌を、本人の意図から離れて自由に議論する権利がある。
悪意に満ちていて、同時に美しく神聖な、ジョーカーマンとは何者なのか。神なのか、悪魔なのか、かれの精神なのか、という議論が続いている。わたしはそれらすべてが、かれの心の鏡に映ったまま歌われているのだと思っている。心について語る言葉がそのまま神を語っていることだってあるし、その逆もある。特筆すべきは彼の精神的態度であって、彼はそうしたパラドックスに素手で挑み、ぶつかり、苦しんでいる。そう、これは彼の信仰告白の歌である。しかも古今東西例を見ないほど生々しく、誠実で、美しい。彼は神を前に、苦しみ、悩み、崇拝し、あこがれている。それが神なのかどうかさえ疑いながらも。ジョーカーとしか呼びようがなかったのだろう。あるいは誰かが指摘したように、タロットカードのジョーカー(Fool)からイメージが広がっていったのかもしれない。つよい信仰心を示しながらも、まったく正気であり、誠実であり、まったく狂信的なところがないのも、特筆すべきである。
このことについてはべつの場で詳しく語りたい。話をもどそう。
さて、ボブ・ディランが歌にしてみせたように、人間の意識は、そして心に映し出されるこの世界はパラドックスに満ちている。これが人間の本質の一部なのだということ。易経はその瞬間に、存在そのものに、じかに切り込もうとする。
この真実に気づいたとき、占い師は占いを放棄する。占いが当たろうがはずれようが、どうでもよくなってくるのである。そんなことよりも、ある本質のようなものを考察するために、ものを見、考えるために、かれは易の卦を立てるようになる。
わたしはなにも高尚なことを言っているのではない。易経とつきあったことのあるひとなら誰でも、うすうす感得していることを、まっすぐに表現しているだけのことである。