易経とパラドックス

2005-12-20 20:56:29 | Notebook
   
中国の古典のひとつ、易経はおもに、占いの本として知られている。
この易経といささかでもつきあったことのあるひとならば、その奇妙さに気づくことだろう。
その本のなかでつねに起きているのは変化だからである。そしてその変化のなかでとくに目につくのはパラドックスだ。

易経のなかでは、容易に主体と客体が入れ替わる。被害者について占ったのに、加害者の暗示が出てくる、というようなことがよくある。まったく逆さまの意味が顕われるのだ。
それから、意味も容易に逆転する。遅れる夫は凶なり(遅れてはだめだ)という暗示が容易にそのまま、遅く行ったほうがいい、という意味をもつ。しかも頻繁に。まったく正反対の変化というものが、ほとんどいつも顕われてくるものなのである。
占い師はだから、その変化がどう動くかを注意深く見つめることになる。一見主体について語られているものが、客体についてのことなのかどうか、右から左へ動くという暗示が、いつ左から右へ、に変化するかどうかを、秘かに吟味する。山澤損(損をする)という暗示の意味が、風雷益(得をする)を含まないかどうかを見きわめる。そして、そのダイナミックな変化を、パラドックスを、目の当たりにすることになる。

占い師はこうして、事象のある本質を掴む。世界が、自我を中心には動いていないことを。現実は、その場によって成るものであって、その場に有るものはみな互いに変化し影響を与え合い、我と他の区別はないのだということを知るのである。損をしたものが同時に得をしているのだということを、知るのである。不幸には幸福がふくまれ、幸福には不幸がふくまれる。男性には女性が宿り、女性には男性が宿る。晴れた空には雨の精が宿り、雨のなかには晴れが宿る。加害者が同時に、被害者であることを。傷つけたものが同時に、ふかく傷ついているということを。聖者が本質的により多くの悪をふくむことを、恐ろしい祟り神が同時に優しい恩寵の神であることを、悟るのである。
この世がパラドックスに満ちていることを、占い師は知るのである。


ところで、すぐれた詩人の才能が、そのパラドックスを丸ごと掴み、表現してみせるという荒技をやってのけることがある。

アメリカのポップ歌手、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の作品「ジョーカーマン(Jokerman・1983年)」が何を歌ったものなのか、いまだに議論にけりがついていない。ここには聖なるものと邪悪なもののパラドックスが、ジョーカーというキーワードの周りで鮮やかに表現されている。ただし、本人がどこまでこれを認識しているかは分からない。こういう歌詞は無意識のちからによって書かれるものだからだ。本人の表層意識が説明を始めたとたん、まったく貧弱なことしか考えていなかった、ということが詩の場合にはよく起こるのである。朝食の歌をつくっているつもりが、祖先の霊を崇拝した歌に仕上がった、などということがよく起こる。おなじようにディランの「愚かな風(Idiot Wind・1974年)」は国民の怒りの歌だと、当時アレン・ギンズバーグから絶賛されたが、あれはもともと離婚の歌にすぎなかった。しかしギンズバーグが間違っていたわけではない。本人の無意識がやっていることを、本人の表層意識があんがい把握していないことは多い。だからわれわれにはこの歌を、本人の意図から離れて自由に議論する権利がある。

悪意に満ちていて、同時に美しく神聖な、ジョーカーマンとは何者なのか。神なのか、悪魔なのか、かれの精神なのか、という議論が続いている。わたしはそれらすべてが、かれの心の鏡に映ったまま歌われているのだと思っている。心について語る言葉がそのまま神を語っていることだってあるし、その逆もある。特筆すべきは彼の精神的態度であって、彼はそうしたパラドックスに素手で挑み、ぶつかり、苦しんでいる。そう、これは彼の信仰告白の歌である。しかも古今東西例を見ないほど生々しく、誠実で、美しい。彼は神を前に、苦しみ、悩み、崇拝し、あこがれている。それが神なのかどうかさえ疑いながらも。ジョーカーとしか呼びようがなかったのだろう。あるいは誰かが指摘したように、タロットカードのジョーカー(Fool)からイメージが広がっていったのかもしれない。つよい信仰心を示しながらも、まったく正気であり、誠実であり、まったく狂信的なところがないのも、特筆すべきである。
このことについてはべつの場で詳しく語りたい。話をもどそう。


さて、ボブ・ディランが歌にしてみせたように、人間の意識は、そして心に映し出されるこの世界はパラドックスに満ちている。これが人間の本質の一部なのだということ。易経はその瞬間に、存在そのものに、じかに切り込もうとする。

この真実に気づいたとき、占い師は占いを放棄する。占いが当たろうがはずれようが、どうでもよくなってくるのである。そんなことよりも、ある本質のようなものを考察するために、ものを見、考えるために、かれは易の卦を立てるようになる。

わたしはなにも高尚なことを言っているのではない。易経とつきあったことのあるひとなら誰でも、うすうす感得していることを、まっすぐに表現しているだけのことである。

耐震強度偽装事件で身につまされる

2005-12-20 00:57:55 | Notebook
  
今日はとても寒かった。東京ではこの朝はじめて氷点下の気温を記録した。12月でここまで寒くなるのは10年ぶりだそうだ。
ぶるぶる震えながら、最近のあの事件の被害者のことをかんがえていた。あのひとたち、この寒空の下でどうしてるのかな。

姉歯さんという一級建築士だったひとが、マンションやホテルの耐震強度計算を偽装していた事件が発覚してからもう1か月以上も経った。行きすぎたコストダウンを追求する建設会社の要求から、やむなく姉歯さんが鉄骨の本数を大幅に減らした建物を設計してしまい、それがそのままチェックを通ってしまい、現実に建物として建てられてしまい、そこにたくさんのひとの生活や仕事が携わってしまい、この年末の大問題になっている。
かわいそうに、新しい生活に夢をもって2か月前に引っ越しをした若い夫婦は子どもを連れてマンションを出なくてはいけないし、閉鎖されたホテルをおっぽり出されたひとは別の仕事を探さなくちゃいけない。
無茶苦茶なコストダウンを要求していた建設会社の実態や、その背景でそうした精神を吹き込んでいた経営コンサルタントの姿が浮き彫りにされたりして、誰にどのくらいの責任があるのか、という議論と調査がなされている。

最初はただ、ずいぶんひどいことをしたもんだと呆れていたわけだが、証人喚問で証言する姉歯元建築士の顔を見ているうちに、たいへん不謹慎な話かもしれないが、わたしは姉歯さんに同情してしまったのだ。被害者のみなさん、ごめんなさい。
なんと、かれの顔が、自分の顔に見えてきたのですよ(笑)。
身につまされたんですね。ようするに。

姉歯さんの、あの頼りない感じとか、繊細そうな雰囲気とか、ゆるんだ感じ。あの感じは、どことなく、わたしに似ているなあ、やだなあ、と思ったのでした。
それにわたしの目には、かれは内向的な人間に見える(内気という意味ではなく分析心理学で言われているところの内向です)。内向的な人間のもつ危うさのようなものが感じられて、そういうところも、わたしに似ているなあと思ったのでした。もしそうだとしたら、彼の言葉はかなり内向していて、現実とリンクしていないという危険もある。つまり彼の認識には誤解が多いということですね。だとしたら建設会社のひとたちは本当の被害者という可能性が大きくなる。

わたしは肉親や生活をすべて捨ててまでも、ああいう偽装を断る勇気をもっている。いつでも首をくくれる覚悟ができているからだ。自分の運命と仕事を信じているからだ。しかし、わたしのようなものは異常な人間であって、そうしないひとのほうが人間らしいと思う。わたしは姉歯さんを指さし糾弾するだけの無邪気さを持ち合わせていない。
なぜその偽装をことわって、事務所をたたんで、病気の妻といっしょに路頭に迷わなかったのですか、と言えるほどには単純じゃないし無邪気じゃない。
同じように、立場上やむをえず不正をはたらいているひとを、それだけでは何とも思わないし、かれらと友人にすら、なれる。いやな世の中に生まれてしまったね、としか言うことはない。

もちろん、いまわたしは、わざと話をねじまげてものを言っている。

いっぽう建設会社の社長と支店長だったひとたちや、経営コンサルタント会社の社長たちは、わたしとは別世界の人間だった。彼らの顔を見ているうちに、ああ、こんなふうなひとに何人も会ってきたなあと思ったのだ。

あの建設会社の元社長・元支店長のようなひとはたくさんいる。とても素朴で、善良で、平凡だったはずなのに、まったく想像力が欠けていて思想がないために、無茶苦茶なことを言うひとは、たくさんいる。ときには部下に対して、死ね、とまで言うひとだっている。じっさいに危険な現場に平気で部下を行かせるひとだってざらにいる。そこに凡百の経営コンサルタントが関わって、いらぬ智恵を吹き込みだすと、ろくなことがない。そうして潰れていった会社はたくさんある。

たった2万円のデザイン料金で、何十点もデザイン案を出させて、それを全部ボツにしたと見せかけておいて、あとでそれを生かして使っていた事務所もあった。べつに彼らが悪人だとは思っていない。たぶん想像力と、仕事への誇りというものを学ばずに来てしまっただけだと思う。逆にそういう立場にいたら、わたしも同じことをしていたかもしれない。ほとんど無料に近いデザイン料金で、多くの効果を上げているわけだから、担当者の評価もさぞ上がったのだろうと思う。しかしこういう会社は案外うだつが上がらない。仕事の芯が腐っていくからだ。

医者にかからずにガンが治る、という本をデザインしたとき、この本を読んで死ぬひとが出るだろうな、と思った。でも、わたしはその仕事を引き受けた。姉歯さんの場合とはだいぶ違う。著者と版元には責任があるが、デザインには責任がないと判断したからだ。しかし根っこにあるものは同じだ。担当編集者にはまったく想像力と誇りが欠けていた。しかしいいひとだった。
ちょうど同じころ、他でもないわたしの父が、胃ガンにかかった友人のところへいって同じような本を読ませ、医者にかからないほうがいいと説得したことがあった。その友人はやがてガンが悪化して死んでしまい、わたしの父は遺族の方々からたいへん恨まれている。

ひとは悪人と善人の間をいともたやすく行き来する。そのひとが善人であるか悪人であるかなんて、じつは本当の問題じゃないんだ。と言ったひとがいる。誰の言葉だったか思い出せないが、狂っていると思う。しかしいま、その狂った言葉を感慨深く思い出す。