肉食と菜食

2007-03-23 06:41:23 | Notebook
     
1)

ひとは、肉を食べる。民族によって多少の違いはみられるものの、牛や豚、あるいは羊、馬などの筋肉や内臓を食べる。また海や川で獲れた魚肉を食べる。

肉を食べるとき、ひとは、ある種の動物的な力や、動物的な美徳を、心理的に摂取している。これが心身両面で有用な薬になることがある。驚くひともいるかもしれないが、実際に、肉食によって病気が治癒した例は多い。わが国の古い記録のなかにも、肉食によって救われた仏道修行者の例などが伝えられている。

ひとは魚肉によって心理的に海や川に通じ、獣肉によって心理的に深山幽谷に通じていく。ある種の気質をもったひとは、それを「霊的に」という表現で語りたがるだろう。そこには海草や穀菜食では得られない、肉食ならではの心理的な効果というものがあり、これを無視して人間を語ることはできない。動物を解体し食べる作業を神聖視する思想は、たいていの民族でみられる。こうした世界観を、生命への信仰心やアニミズムのみによって解釈しようとするのは、無理がある。

2)

しかし今日わたしたちは、肉食よりも菜食のほうが食材としてはるかに優れていることが分かってきている。肉体のことだけを考えるならば、肉食は敬遠しておいたほうが賢明だが、肉食を捨てることで失うものも、また大きいのである。

ひとは、食べ物を通じて世界から何かを心理的に摂り込んでいる。森羅万象、さまざまなものを心理的に摂り込んでいる。より自然に近い人間を、たとえばナチュラリストを目指す場合はもちろんのこと、ひとは一般に、森羅万象を食べ物の対象としてかんがえるべきであって、それをことさら菜食に限定する思想には無理がある。

ただし自然から離れ、精神性・霊性を切り捨て、人間の身体を物質的に、肉体のみの存在としてとらえるのであれば、食材として問題の多い肉類を捨て、穀菜食に徹したほうがはるかに健全であり、理にかなっている。しかし現実には、肉食を捨て去ることは、世界の半分を心理的・霊的に捨てる行為にひとしい。

3)

菜食主義者が、世界の半分から心理的につねに目を逸らし、結果的に自らの身体の半分に対して目をつぶり、つねに世界と身体という自然に対し、怯え続ける理由のひとつがそこにある。かれらは目を逸らした世界から報復を受け続け、現実の過酷さに耐えられなくなっていく。人間の本能の一部にすぎない病いや、不幸に対し、心理的に極端に脆くなっていく。もっとも肉体そのものは、質の良い穀菜食によって耐久力が増してはいるのだが。

また彼らはおなじ理由から、老いを極端に恐れる。そのためある種の菜食主義者は、老いてなお身体の鍛錬に余念がない。健康的で筋骨たくましい老人の姿は、一見すると大変好ましい。しかしその裏側では、心理的な病いが致命的に進行している場合が、すくなくないのである。
ひとは彼と挨拶を交わし、世間話をし、ふいにその奇妙さに気づく。世界観の広がりがまったく欠落していて、偏狭な無人島のような人格が、けっして荒れ狂うことのない書き割りのような無意識の海のうえで、ただ健康的なだけの日射しを浴びて、そこにある。その異常さに気づいて、慄然とするのだ。

彼らは肉食に対して特別な汚(けが)れの感覚を投影し、不幸や、病い、わざわい、さらに何か忌まわしい感覚を投影する。そうして、それらの恐怖を肉食といっしょに葬り去ろうとするあまり、かえって逆に、それらをひどく恐れ続ける運命をたどる。こうなると実際に、肉を食べるだけで本当に体調をくずし、ひとによっては病気を引き起こすこともある。

しかし彼らと、もとの世界との関係は、皮肉なことに、そうやって恐れ続けた不幸や病いを通じて回復するのだ。
たとえば難病や思いがけない不運によって、ようやく世界と、そして自らの存在と接点をもつ。そうして彼らはふたたび森羅万象と関係をもつ。自分がありふれた、愛すべき一個の人間であるということ。それまで部外者として見ていた、気の毒な不具者や病いに苦しむひとびとと同類の、同じ人間であることを、思い出すのだ。

菜食主義者が往々にして、皮肉なことに、たとえばガンなどのような難しい病気に罹ることで人間性を回復するのは、ほとんど神のはからいに見える、とまで言ってのけた毒舌家がいたほどだ。わたしはそこまで残酷にはなれないが。

4)

もっとも、食物には別の側面があって、たとえばわが国では、先にふれた「汚れ」という観念が存在する。この「汚れ」は、精神的・霊的なよごれを意味していて、これがさまざまなトラブルや不幸、病いをもたらすと考える。この汚れは、邪悪な考えや、愚かな行いや、食べるべきでない食物などによってもたらされる。これは、不幸や病いを、この汚れを解消することで解決しようとする思想に結びついている。ふつう汚れを解消することを「清め」といい、それは通常は、神の力によって行う。似たような思想をさまざまな民族にみることができる。

わたしの曾祖母は青森県津軽地方の高名な呪術師であったが、祈祷を行うとき、彼女は数日間の断食を行っていた。彼らの流儀でいうところの、神の力を借りるために、身体と精神を神の意思にかなう状態へ近づけようとする。そのために食事を断ち、雪に閉ざされた真冬の東北の、女人禁制の霊山である岩木山に、特別に許されて登山して、氷を浴び、雪で身を清めるという荒行を続けていた。そうしてトランス状態へと入っていく。

しかしこれは、特別に選ばれた修行者が、通常の人間を超えようとするときに行う儀式である。呪術師たちは、こうして神の力を預かることで「清め」を行い、より強い汚れ、つまり不治の病いや悪霊とよばれるものを解消しようとする。より強い汚れに対処するために、自らの汚れを清める。そうしてより多くの不幸を背負い込もうとするところに、この行為の眼目があるのだ。

「より多くの不幸を背負い込むため」に、清めるのである。これはいくら強調してもしすぎることはない。

呪術師は通常どの民族においても、常人を超えた不幸を背負い込む。たとえば韓国やアフリカのシャーマンは、みずからの身体に傷をつけ、針を通し、血を流して祈祷する。この行いには独自の心理的メカニズムがあって、意外なことにマゾヒズムとは関係がない。

彼は「世界中の不幸」を、「最も重い不幸」を背負い込む。救世主の受難というメカニズムは、じつは世界のいたるところで、また個人の意識のなかにも見ることのできる心的真実であり、キリスト教の十字架は、それを端的に示している。

5)

選ばれた修行者は、清めと汚れを交互に行う。身を清め、他人の強い汚れを、とくに世界で最も重い不幸を引き受ける。わたしの曾祖母の場合は、狐憑きと呼ばれる患者を治すことが多かった。狐憑きとは、狐に似た精霊の存在が一部のひとびとの間で信じられていて、その怒りを受けた患者が、錯乱し狂人のように振る舞う病いをいう。じっさいの狐とは関係がない。同じような現象に、犬神憑きというものがある。いずれにせよ、それはにんげんの深層とふかいかかわりをもっている。

儀式のなかで彼女は実際に、供物として用意された生魚や生肉を食らうことで、象徴的に精霊にそれを捧げるという行為におよぶこともある。肉体を持たない精霊の身代わりになって供物を食べるわけだ。えんえんトランス状態が続き、ひたすら生肉・生魚を食べ続けることもある。動物が生魚を喰らうように、生まのまま頭からむさぼり喰う。そして一段落すると、ふたたびそれを荒行によって清めようとする。そしてまた、むさぼり喰う。

ここでは汚れと清めの往還が要であり、呪術師はけっして清めの世界だけに安住しようとはしない。不幸や病いを遠ざけ、できるだけ神のそばで安心しようというような精神のなかには、じつは「清め」は存在しない。世界の不幸を背負い込むことで、はじめて清めが成立し、彼は神の力を借りることができる。

彼らは汚れを通して森羅万象にじかに触れようとする。人間存在そのものに、汚れ、すなわち悪霊と患者の苦しみを通じて立ち向かおうとするのだ。
われわれが神から授かる救いや、その恩恵は、清めそのものというよりは、清めの行為によって穢れを認識し、自己洞察を深めるところから来ている。どんな宗教のばあいでも、長年その宗門のなかにいるひとびとよりも、あらたにその門を叩く新参者のほうが、ずっと神聖で輝いている場合があり、その理由のひとつがここにある。長年のあいだ清らかな状態にいるものよりも、新参者のほうが、にんげんの罪と神聖さへの認識に近いからである。

やがて儀式が終わると、呪術師は里に下りてきて、通常のにんげんの世界に戻ってくる。汚れと神聖さが同居した、愛すべき、暖かい体温をもった、にんげん本来の自然へと、戻ってくるのである。もちろんふつうに肉も食べる。

特別な使命をもたないひとが、ことさらに肉食の汚れを嫌う行為とは、まったく性質が違うのだということに、注目しておいたほうがいい。

6)

いまも獣たちは、神々の森のなかを徘徊し、気の毒な獲物に喰らいつき、息の根を止め、生まのままむさぼり喰う。くちの周りを血で染めながら。そこには、ある種の神聖さがある。その神聖さはいまも、わたしたちのなかに生きているのだ。

そしてにんげんの食物は、森羅万象を神聖な祈りへと高めようとする。調理は、祈りだ。易経の「火風鼎」という卦には、調理するという意味と神を祀るという意味が等価に扱われている。それは、あの神聖さと、神々へと向けられている。

すくなくとも、はっきり言えることは、われわれの神は歴史的に、菜食主義者を支持してはいない。
肉食を嫌うことで世界に背を向け、にんげんから逃げつづける者を許したこともない。


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4 コメント

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関係、あるいは契約 (Kaze)
2007-03-23 11:46:10
私の考えるところでは、他の動物や植物を食べると言う行為は世界とのある意味での契約、関係性の維持ということができる。
それを通して、世界と関わっている。つまり他の生命を自己のうちに取り込むことで、自己の生命を強化するというのがポジティブな考えとすれば、他の生命を自己保存のために殺生することで食物連鎖の中から逃れられない生命としての業(ごう)を背負うというネガティブな考え方もできる。
しかしどちらにせよ、人間は生きていく以上他の生命を自らのうちに必要とするのであり、それを肯定しないで生きていくことは不可能だ。
食事の前に、いただきます、という挨拶をすることは本当はとても大切なことだと、最近私は思っています。
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Unknown (SleepyShin)
2007-03-23 15:43:02
>Kazeさん
コメントありがとうございます。食べ物のリアリティを考えるのは重要なことなのですが、なかなかできないですね。どうしても宗教観念や思想が基盤になってしまう。いったんそういう視点を定めながら、徐々にそれらを無化していくことはできないかと思っていました。この文章は2年かけて書いたのですが、まだまだ修正の余地がありそうです。
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Unknown ()
2007-03-24 00:21:05
巷では、ヘルシーか否かと言う条件でそのラインが引かれているようですが、精神世界と深い繋がりがあるという考察を、興味深く読ませて頂きました。
子供のような事を言いますが、野菜や穀物にも血や命は流れていると思っていますので、菜食主義者が肉を食べない理由に「血や命」を引き合いに出したら、それは嘘だと思います。
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Unknown (SleepyShin)
2007-03-24 12:36:58
>凛さん
それはわたしも感じています。植物だって命ですからね。
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