ここにいるのは何だろう?

2010-10-03 11:44:18 | Notebook
     
いま死ぬとしたら、ここにいるのは何だろう?



それは青年の、ひ弱な問いかけではなく。

何者、ではなく、何?
わたしは? ではなく、その生き物は、でもない。

わたしはとうに過ぎ去っているのだから。

さまざまな思いを成してきたもの、しかしそれ自体は気持ちや気分でもなく、まだ靄のようなもの、その色合いや味わいを、わたしたちは手から手へと受け渡してきた。

涙と苦しみのようなもの。しかしまだそれは涙も苦しみも結んでおらず、うつろいやすい影のような色をみせる。ぞっとするような、しかし陶然とした、冷たい夜の匂い。

あたたかい希望のようなもの。しかしまだそれは喜びも快楽も生んではいない、椅子にのこされた、誰かのぬくもりのようなもの。



遠いとおい時と場所の人物が、この世のなかにたたずんで、不運の風に吹かれ途方に暮れるようなもの。その行き場のない無念が、まだ無念という気持ちさえ結ばないまま、ひとからひとへと受け渡される。

その無念の色あいをおびた、靄のようなもの。それをはるばる身に受けてしまった父親から、さらに受け渡されてしまった娘が、その暗く、冷たい色あいに染められる。それは生まれる前からの、まだこの世に彼女が存在しない前からの受難。

彼女は冷たく未熟な男に魅せられては、失望をくりかえす。怒りですべてを終わらせてしまうこともある。不当に誰かを軽蔑したり、恐れたり、不安になることもある。彼女に宿った靄のようなものは、希望のない愛にしがみつかせ、稚拙なかんがえに支配させる。

ある朝、彼女は目が覚め、ふいに気づく。わたしが不幸になったのは父のせいだと思っていたが、そうじゃなかった。もっと微細な、こころの色あいのようなものだ。それも一つではなく、混ざり合っている。そのうちのいくつかがわたしの気持ちを沈ませ、なにかを歪め、くせのある見方をさせていたのだ。この色あいのいくつかは、父とそっくりだ。しかし父ひとりの責任ではない。いったいどこから来たのだろうか。こんな運命をになっているわたしとは、いったい何だろう?

彼女は生を超えた靄のようなものを、知らず知らず生きる苦しみを通して見ているのだ。般若心経を誦えるものたちが、じかにそれを見つめるように。聖書の言葉が、死者たちの流儀を示すように。すべての苦しみが、そのまま誰かを救っているように。

わたしたちは太陽の光の美しさを見るように、生きる苦しみをとおして死者たちを見つめる。あの美は、死なのだ。



もしもいま死ぬとしたら、ここにいるのは何だろう?


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2010-10-14 07:33:23
意識・無意識している諸々の感情は、その人が所有?しているようで実はその人とは離れたところで流れている。それでも人はその得体の知れないモノに囚われずにいられない、ということでしょうか。
そのモノに気付き、心を苦しめながら生きるという悲しみもまた、その流れの一部なのでしょうね。

誰かがいま死んで、はじめから終わりまで、そこにあったのは物理的な肉体だけであった、というのであれば、なんだかやるせないです。

ヤドカリが残した貝のような。
返信する
Unknown (SleepyShin)
2010-10-14 11:36:19

>凜さん

そうです。そんな感じです。なんか難しくてすみません。それは感情というよりも、感情以前のモトみたいなものですが。

……凜さんへのお返事を書いているうちに長くなってしまったので、あたらしいエントリにしました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。