神秘思想や宗教について話をしたいというひとには、まず最初にクギをさすことにしている。
「宗教や神秘思想なんかに興味を持ったところで、けっきょく損をするだけだよ。人生を捧げ、全財産を放り出して、誰よりも多くの不幸を背負う勇気がある?」
「すくなくとも、何も求めない勇気が、きみにはあるの?」
すこしでも、深い瞑想の戦いをしたことのあるひとならば、わたしの言っていることが冗談ではないと気づくだろう。
そういう意味で、「出家」を説く仏教は、とてもフェアだ。出家とは死のメタファーなのだから。全部捨てて、死んでしまえ、話はそれからだ。正直にそう言ってのけているのが、仏教だ。
ところが、宗教や神秘思想に興味をもつひとの多くが、驚いたことに、「なにか特別のもの」を欲しがっている。なにか人生に意味をあたえてくれるようなもの。いや、意味をすら超えているもの。この世で最高の秘密。秘儀。
そういう意味で、彼らはほかのどんな人種よりも貪欲だ。これはクリシュナムルティのファンでさえ、そうなのだから、まったく救いようがない。
それから、オカルトが好きなひとの多くは、神秘に取り憑かれている。彼らは、風変わりで面白い、そして珍しい、めったに聞けないような話が大好きだ。そして、その情熱と関心の分だけ、頭のなかは空疎にできている。空疎な魂をいっぱいにするためのヴィジョンを、いつも求めて歩く必要があるのがオカルト好きのひとたちだ。たとえば、「ルネ・ゲノンの思想は、ユングなんかよりずっと面白いし、本物だね。ああ、でもシュタイナーは捨てがたいかな」などといった話を、彼らは際限なく続ける。何千年続けても、なにひとつ生みだすことのない、空疎なおしゃべり。彼らは、まったく空っぽなのだ。
彼らが求めている、この世の最高の意味なるものに、すこしでも近づくためには、まずその「神秘」を捨てなくてはならない。これは実にまっとうなことに、仏教もクリシュナムルティも繰り返し言っていることだ。「それ」は知識ではない、ひとから貰えるようなものではないと、クリシュナジーは繰り返し説いている。それなのに彼らは、この肝心な部分を聞かなかったふりをして、べつのなにか都合のよいものを欲しがり、その汚れた手をずっと差し出し続けている。
これがもうすこし俗っぽい人間の場合は、「神秘」などには興味を示さず、「成功」「幸福」「安心」「健康」を求める。その宗教を信じることで、人生がうまく運ぶというわけだ。たとえば難病には罹らずにすむなどと、彼らは信じ込む。信じておれば、どう間違ってもガンなどには罹らないと、彼らは泣いて感動する。
しかし、もしも、ほんとうに宗教に触れることができたとしたら、彼らは尻尾を巻いて逃げ出すことだろう。ほんとうの宗教はむしろ、ときには彼らが欲しがっているものを与えるのではなく、奪いあげ、悲惨な運命をこそ与えるからだ。
さらにもっと即物的になると、神秘からは完全に離れてしまい、宗教などには洟もかけない。そして身体意識にとどまり、たとえばマクロビオティックや気功や、最近でいえば脱原発などの信仰にかぶれていく。
オカルト好き、神秘好きのひとたちは、こういう俗っぽい、即物的な連中を軽蔑するが、とんでもない。神秘好きの連中のほうがずっと重症で精神病に近い。
ある神秘好きの人物と話をしたことがある。おなじように特別のものを欲しがっていた。だからわたしはクギをさしておいた。そして違う話をした。神秘好きという欠点を除いては、とても善良で、素晴らしい人物だった。わたしは彼と友人になりたいと思った。
しかし、それから数か月後、彼が夢のなかに現れた。そしてあろうことか「カネを払え」と言うのである。わたしになにか貸しがあるらしい。そして手を差し伸べてくる。しかし、その要求が理不尽なものだと感じたわたしは、支払いを拒否した。そこで目が覚めた。
はじめは、どうしてこんな夢をみるのか分からなかった。気さくで無欲な現実の彼と、夢のなかの貪欲で偏屈な彼は、まったく別人のようだった。なんども考え続け、ある日やっと分かった。夢で見た彼の姿は、彼の魂のほんとうの有りようを見せてくれたのだ。(※追記あり)
たとえば、まじめに「ヨブ記」を読み、その意味を瞑想しているひとや、まじめに「般若心経」に心をそそぎ、その意味を汲みあげ続けているひとびとは、まったく何も求めていない。求めた瞬間に、すべては水泡に帰し、地獄に堕ちるからだ。だから彼らはただ自らの宿命と、運命に導かれて、そうしているだけだ。どちらかというと、御利益どころか、むしろ損をしているひとたちだ。わたしが宗教について語り合いたい人物は、こういうひとたちだけである。
※追記
夢にはつねに複数の意味がある。彼がわたしに「貸し」があるというのには、じつは別の主観的(内面的)な意味があって、ほかでもない、貪欲で偏屈な彼の姿は、かつてのわたし自身でもあるということだ。彼は、過去のわたしそのものなのである。その事実に目を向けよ、その事実に対して、まだ精算がすんでいない。まだ、すべきことがある。夢は「貸し」という言葉で、この点を突いているのだ。
スピすきな
私も精神病かも(笑)
宗教ほど求めて奪うものはないと思います。
空の空。
伝道者の書にも
般若心経にも答えは書いてある。
奇跡とか具象を求めるって
愚かな事だと思います。
m(_ _)m
拝んだら何か良いことがあると期待すること自体は、ダメではないと思います。
この日記ではその負の部分を強調するためにキツイ言い方をしていますすが、神仏にすがる気持ちに間違いはないと思います。
ただし、そこに「敬虔さ」があるかどうかがポイントなんだろうと思います。
懸命に拝むけれども、あとはすべて神仏にお任せするというような、敬虔さ。必死に神仏にすがるけれども、同時に、あたえられた不運も絶望も、自分の運命として受け入れる。そんな敬虔な気持ち。
それさえあれば、立派な信仰であり、逆に、その敬虔さがないと、それは魔術になってしまう。そういうものなんだろうと思います。