わたしより上の世代の、いわゆるヒッピーくずれみたいな、ドロップアウトしたみたいな、そんなひとたちと話していると、おだやかな気持ちになることがある。会社勤めで追いつめられるような生き方をしているひとたちとはまた違った雰囲気をもっていて、なかなか興味ぶかい。それで生活が成り立つなら、勤め人は彼らをうらやましいと思うかもしれない。
アジア辺境の民族衣装を身にまとい、髭をたくわえ、髪を胸までのばして、ずっと絵を描いているひと。見たこともない、へんな帽子をかぶって、民族楽器を奏でるひと。みんなよそのクニの、どこかの楽園からやってきた使者みたいだ。ある芸術家と、仕事の打ち合わせのために駅で待ち合せたら、駅の真ん前で、ネパールの民族楽器を奏でながら待っていたこともあった。
こうしたひとたちが団結して、山にトンネルを掘ろうとしている行政に抗議したり、核兵器や戦争に反対するキャンペーンをやっていたり、自然を守るための活動をしていたり、世の中のために積極的に活動していることもある。
それに彼らはみな、ひとを見る目がやさしい。会うとほっとするひともいるだろう。わたしは彼らにたすけられたと思うことがある。
ところが、ながいあいだこうした人びとと付き合ってきて、相手によっては意外なものが目につくようになってきた。
やさしく、おだやかで、あたたかい目をした彼ら。しかしそのなかには、冷たい光がやどっていることがある。ひとによるけれども、まったくべつのものが宿っている相手にお会いすることがあって、しかも、それがめずらしくないから、ずっと気になっていた。
こうしたひとは、表向きはとてもポジティブな人物なのに、いつも嘆いている。
その嘆きの原因は、たいていはいっしょに仕事をしている相手だ。
「あそこの事務所の女の子は、ぜんぜん仕事ができてなくて、困っちゃうんだよ、いつもよけいな手間をかけなくちゃいけなくて」
「あのクライアントとの付き合いはもう長いけれど、センスがわるくて、意識が低くて、うんざりなんだ」
あたたかい、おだやかな目をして、そんなことを言う。わかいときは、彼らの言うとおりなんだろうと思っていた。しかしやがて、仕事ができないのは逆に彼らのほうで、ふつうの行き違いやストレスに耐えられないで、そんなふうに言っておられるのだろうと思うようになった。だいたい若者を甘くみたり、未熟な相手を粗末にあつかう者のほうに、ろくな仕事ができないものが多い。
そしてさらに、いまは、彼らに対してもうすこし違った印象をもっている。
それは、否定と不信感だ。彼らのなかに生得的に、はるか昔から、そういうものがずっと宿っているのではないか。そう思うようになった。
社会に対する不信感。生きることへの過度な不安。そこからくる否定意識。そういうものがもともと彼らのなかに宿っていて、それが本人をドロップアウトさせたのではないか。就職できなかった本当の理由なのではないか。戦争反対、と抗議していることの、本当の理由なのではないか。そういう仮説を立ててみると、いろいろ腑に落ちると思うようになったのである。
つまり彼らは、世の中がどうしようもないから世界にたいして不信感を抱いているのではなくて、もともと彼らのなかに不信感や否定が宿っていて、それを世界に投影しているだけなのではないか、と気づいたわけである。
もしそうだとすると、なんと気の毒なはなしだろう。戦争反対、などと「有意義」な活動をすればするほど、彼は自分自身から遠ざかり、不幸になっていく。いくら瞑想をしてみても、どんなに修行をしても、自分のほんとうの姿に辿りつくこともできないだろう。まず出会うべきなのは、自分のなかの「否定」や「不信感」だからだ。自分をなにか実際以上のものに感じさせてくれるような有意義な活動も、ポジティブ・シンキングによって得られる多幸感も、まったくマイナスに働いてしまう。
しかしいったん世界や他人やパートナーに投影していたものを自分のなかに戻すようなことが、できるだろうか。そんな器用なひとは、なかなかいない。せめて鬱病にでもなれるくらいの感受性があれば突破口に辿りつくかもしれないが。
わたしは、自分がときどき意味もなく体調がおかしくなる理由が、じつは根深い不安感から来ており、それはある種のパニック障害のようなものだ、ということに気づいたことがある。それはかなり以前のことだが、それをそうと確信できるまでには、さらにながい年月がかかっている。そのためには、むやみに意識を変容させてしまうニコチンともアルコールとも、ときにはカフェインとも縁を切らないと、できなかった。こうした薬物は、いつもひとを旅人にしてしまう。家を見失しない、探しているひとには毒になることがある。自己認識というものは、とても難しい。それに、他人に指摘してもらうのでは、残念なことに、ほとんど意味がないのである。
彼らの否定のエネルギーのようなもの。不信感。それがはっきり見えるようになってくると、その表面的なおだやかさ、あたたかさが、じつは吹けば飛ぶような浅いものであることが分かってくる。むしろふつうの勤め人のほうが、ねじれていないぶんだけ、ずっと人間らしくて、あたたかいのだと気づくことがある。
もちろん、そうでないひともいる。ずっと親しくおつきあいさせていただいている芸術家もいて、くちには出さないけれど、そのひとのおかげでいまのわたしがあると思っている。そのひとのなかには、否定の影など感じられないし、ネガティブな愚痴を聞かされることもない。