初心者でもベテランでも、編集デザインの仕事では文字組みにいろいろ工夫をする。とくにタイトルは字間を詰めたり空けたり、小さく見える平仮名を微妙に変形拡大させていたり、中心の位置を微妙にずらすなどして整える場合がある。
まれに素人の編集者がいて、そうやって仕上げたタイトルや小見出しをあとから勝手に変更してしまうことがあるが、こういう人物はだいたい仕事ができないし覚えない。これは仕事以前の話であって、その観察力のなさや、あたまの粗雑さ、その無神経さからして問題外というわけだ。
しかし、デザイナーがこういう作業をしていると、笑われることがある。タイトルのなかの1文字が0.2ミリ右にずれていたって、字間が0.1ミリ詰まっていたって、分かるものではないし、そんなことに時間をかけるだけ無意味ではないか、そう思うらしい。じっさいこれは手間がかかるし、膨大な時間がかかる。しかしこういう作業は大切なものであって、つくろうと思っているイメージへ向かうためのプロセスのようなものだ。それに、やっていることは小さなものだが、ある種のヴィジョンへ向けて意識がひらいていないと、できないことでもある。
むかし、伊豆のある老舗旅館が改築されたとき、招待された名人大工が床の間を見て、そこに使われている板の厚さに1ミリほどの狂いがあると指摘したことがあった。旅館のほうではこれを恥じて、せっかくできたばかりの建物を解体し床の間の板を外して、かんなをかけ直したという。
これをきいたとき、さすがに名人の大工は違うものだと敬服したが、あとになってよくかんがえてみると、名人であろうがそうでなかろうが、ずっと大工をやっていたような人物なら、案外あたりまえのことではないかと気がついた。1ミリの狂いもないように、かんなをかける。大工ならみなそういうものではないか。すくなくともデザインの世界では、0.1ミリの工夫をしている。線の太さを0.1ミリにしようか0.2ミリにしようかと、そんなことを時間をかけて考える。もちろん仕上がりが違ってくるから考えるわけだ。偉い話でも特別な話でも、なんでもない。また逆に、笑われるような話でもない。きわめて実際的な話なのだ。
ひとはよく「こだわり」という言葉をつかう。わたしはちょっとこの言葉は違うのではないかと思っている。
ラーメン屋が、独自の味を追求するのはあたりまえだろう。そのために、素材を工夫するのもあたりまえだろう。場合によっては材料のなかで、たとえば塩を工夫することだってあるだろう。それは中東で採れた岩塩だったり、沖縄の海塩だったりする。こうしたことは「こだわり」なのだろうか。そうではない。
こういったことは、職業的必要とでも言うべきものであって、「こだわり」じゃない。あまりにも普通で、実際的で、あたりまえだからだ。もちろん伊達や酔狂でもなく、趣味でもない。むしろそれを行なうひとや、その場合にとっては、必要最低限のことだ。こういうものを「こだわり」などと言ってしまうと、それはなにか特例の、特別なものになってしまう。
世間で「こだわり」といわれているもの。その実体はむしろ「こだわり」というようなものから、ずいぶん離れたところにある。
それから、そういうものをむやみに尊重する側にも、この「こだわり」という視点がある。先にあげた旅館の、わざわざ建物を解体して造り直したという行為のなかに、特別なものをそこに見て有り難がるという精神的田舎者の思想がなかったかどうか、わたしはすこし疑っている。なければいいのだが。もしあったとしたら、その旅館の行為はたんなる伊達や酔狂になってしまう。それこそ、たんなる「こだわり」であり、それはなにか趣味のようなものになってしまうのだ。
一見、デザインに理解のあるみたいなクライアントと打ち合わせをしていて、それがたんなる趣味や好みの話に終始していて閉口することがある。そういうひとが本当に何かを理解することなどないし、そこにあるのは「こだわり」ばかりだ。こういうひとが案外、相手の仕事への尊敬も尊重も配慮も知らない場合だってある。想像力のようなものも、仕事も、根本的に欠けているのだ。だから趣味や好みに合わないものを認めないし、認める目ももっていない。有名人を有り難がり、無名の画家や音楽家など見向きもしない。
「こだわり」は、つねに閉じており、凝り固まっている。
しかし、ほんとうのものは、つねに開いている。そして、もっと自由なものだ。わたしは文字組みにこだわらない同業者に会っても、べつに軽蔑しないし、むしろ興味をもつ。違った価値観や、べつのところを工夫し積み重ねている仕事がおおいに参考になるからだ。わたし自身、文字組みの工夫の仕方がいつも変化しているし、なんと工夫しないことさえある。めったにないことではあるが、それは手を抜いているわけではない。それが必要ではないと判断すれば、無駄に時間をかける意味などない。何度も言っているように、これはきわめて実際的な話なのだ。
上にあげた旅館の床の間の話でも、たぶんその名人大工は、建物を解体して造り直すべきだなどとは言わなかっただろう。間違っているかもしれないが、そんな気がしている。名人ともあろう人物が、そんな実際的じゃない話をするはずがないし、自身の限界や欠点と向きあってきたはずの人物が、他人の失敗や仕事の欠点にたいして、そこまで理解がないとも思えない。