わたしはその若者の、欠点を愛している。そう自覚したときは信じられなかった。このわたしが、ひとの欠点を気に入るなんて。
ときどき受け答えが的はずれで、とんちんかん。言っていることがときに、すこしずつずれている。かなり年上のわたしにたいして、おやと思うような言葉づかいをすることもある。
表向きは穏やかな人格だが、波に揺られるボートのように不安定で、気が短かったり長かったり、見かけよりは気が強かったり、脆かったり。きっと怒るべきでない相手に腹を立てたりするのだろう。傷つけてはいけないひとを傷つけるのだろう。意味もなく、しょんぼり死にたい気持ちにも、なるのだろう。
自信のない未熟な若者はときに、まっすぐで誠実であるほど、自分の能力を実際以上に見積もっているみたいな頑張り方をする。だからもちろん失敗をする。でも誠実でいい失敗のしかただ、とひそかにわたしは思っている。
公の発言と私の発言がいつも混ざっていて、はらはらさせられることもある。わたしが上司だったら、たまったものではないだろう。
しかし目をこらすと、その欠点のかずかずの、その先に、豊かな運命がみえてくる。長所より短所のほうに将来性があるなんて、奇妙な話だが、わたしがその若者から感じているものが、まさにそんなふうなものなのだ。いや欠点というものが、そもそもそういうものなのかもしれない。
青あざ、赤あざ、つくりながら、いろんな涙をながしながら、すごく大きな綺麗な花が、のびのびと空いっぱいに広がるようすが、みえてくる。
おだやかな日射しを浴びて、欠点で育てられた花が、ふわふわ笑っている姿がうかぶ。
日に灼けた写真みたいに、光をいっぱいにふくんで、未来から笑いかけてくれる。
自分の船が揺れているときには他の船が揺れているのかどうかはわからないものですし。
ただ、この若者の場合は、ちょっとそういう、投影や転移のようなものとはまた違うんですね。わたしが自分について書いたものにはなっていないと思いますよ。
ずいぶん年齢が離れているから見えてくるものもあるんですね。相手が子どもじゃないと、なかなかこういうふうには見えませんからね。
はじめてコメントさせていただきます。
自分にとってとても考えさせられる記事です。
僕にも後輩が何人かいますが、やはり本当に好きだなぁと思える人には、著しい欠点があるものです。
でも、うまくは言えないのですが、そういう欠点は、少し暖かいもので養ってあげれば、真夏の日差しからたくさんの人を守る大樹のようになりそうな種子のように思えたりすることが多いのです。
なんてことを言いつつ、自分も生傷の絶えない若者なわけですが、「誠実でいい失敗のしかた」というフレーズがとても気になりました。よろしければ、もう少しそれについて聞かせていただけませんか?
はじめまして。コメントありがとうございます。
生き方や仕事への向かい方が、根っから真っ直ぐでウソのないひとって、いますよね。世間の基準で言うと生真面目なくらいの。そういうウソのないひとの場合、欠点や失敗のなかに豊かな人間性が息づいていることがあって、職種を超えて将来性があるんですね。失敗が経験やコヤシになるというか。そういう意味です。
逆にゴマカシのあるひとの場合は、失敗は仕事上のスキルでしかない。ベテランになっていくための経験でしかないんです。人間としては一歩も先へ行っていない。
でも、ちなみに仕事の世界では欠点は悪ですよ、もちろん(笑)。場違いな純真さは迷惑ですし(笑)。それに、わたしたちはみな欠点をなくし、克服するように努力しているわけです。だから、このコラムのテーマはいきなり、そういうところを飛び越えて、人間観のようなところへ行っているんです。じつは、とてつもない話だったりします(笑)。
でも、とてもたいせつなことなのに考えるひとが少なすぎると思っています。
そういう人が私の周りにも沢山います。
私もまた誰かにとってのそれなのでしょうが、甘っちょろい私は馬謖を斬れないが故に出世とは無縁です(笑)。
いや、やっぱり職場で困ったひとは、やはり困った人なんでしょう(笑)。それはそれで我慢しないほうがいいのかもしれませんね(笑)。それにしても馬謖を斬る、って言葉、久しぶりに見ました。