本のデザインなんて、やめてしまおうかな、値段も廉いし、ばかばかしいし。たった1度だけ、そう言ったことがあった。そばには当時の恋人がいて、とたんに彼女の顔がゆがんだ。いまにも涙がこぼれそうだった。しかしその顔はすぐに無表情になり、なにも言わなかった。わたしは、その悲しそうな顔にショックを受けた。そしてそれっきり、2度とそういうことは言わなくなったし、考えもしなくなった。
彼女がわたしにたいして、どのような幻想を見ていたのかは分からない。どのような夢を見ていたのかも、分からない。つまらない勘違いをしていたのかもしれないが、それでもかまわない。
いまふりかえってみて、人生設計という観点からのみ見るならば、本のデザインの仕事なんか早く手放しておれば、もうすこしなんとかなったのにと、そう思わないでもない。しかし不思議なことに後悔はない。たとえ失敗で終わったとしても。それは、当時の彼女の真心が、ほんものだったからだ。うまく説明できないが、だれかの真心のおかげで、人生が救われることがある。たとえ失敗だったとしても、それでいいと思えるくらいに。
いまから10年ほど前に、ちいさなお店がオープンした。たったひとりの店主が、ひとりで始めたお店。きれいな料理に、きれいな味。あるとき、そのお店に、南の風に乗って、渡り鳥みたいな女性がやってきた。そして彼女はこう言った。「夢がいっぱい詰まったお店」。何年かのあいだ、その女性は店にいたけれど、やがて去っていった。ふわりと風をいっぱいにふくんで、空に飛んでいくみたいだった。
昨年、わたしの人生を変えた歌、矢野絢子さんの「ニーナ」という作品を聴いていて、いつも思い浮かぶのがそのお店だった。歌のなかで、わかい夫婦がお店を始めて、やがて子どもが生まれる。そのお店は木の匂いがして、それは現実の、わたしが知っているお店の匂いをおもわせた。やがて歌はクライマックスをむかえ、そのお店に置かれていた椅子(椅子が主人公の歌なのだ)が回想するシーンがある。椅子はこんなふうにそのお店のことを思い出す。
カフェの常連
大きなおしり
夫婦の笑い声、喧嘩の声……
このとき、わたしは急に悟ってしまった。あの女性が言っていた「夢がいっぱい詰まったお店」という言葉の意味。彼女がなにを見ていたのかを、やっと知ったような気がしたのだ。どんな夢を見ていたのかを。そして、なんということだろう。店主はそれをまだ、ちゃんと分かっていないのだ。いままでも分かっていないし、いまも分かっていない。わたしは気づいてしまったのだ。彼は真心を、受け取りそこなっていたのだ。かつてのわたしみたいに。
夢は、まごころをいっぱいにふくんで、ほんものになる。それがひとを救うことがある。しかしひとはたいてい、あとになってから気づくのだ。自分がいかに救われていたかを。
その、まごころは、いつまでも消えずに、そこにある。そのひとを救いつづける。