ヘンリー・ソロー『森の生活』のなかに、不動産業者から家を購入したひとの話が出てくる。ソローの時代のアメリカにもやはり不動産業があったらしい。
その購入者には大陸先住民族の血をひく友人がいて、こう言ったそうだ。「家を買うなんて、ばかだなあ」。なぜそう思うのかとたずねると、その友人はこう答えたそうだ。
「だって、家なんか買ってしまったら、隣りに嫌なやつが引っ越してきても逃げられないじゃないか」
アメリカ先住民族のなかには、大がかりなテントのような移動式の家をもつ部族があって、たしかそれをウィグワムという。なるほどウィグワムなら、いつでも好きな場所に住むことができるわけだ。
わたしたちの住んでいるこのクニの事情はもっとタイトで、家を買うためにたいていは多額の借金をして、嫌な隣人どころか、嫌な仕事からも、嫌な役目からも逃げることはできない。それどころか、いったん仕事を辞めてしまったら行く当てもない。せまいせまい国土を、あてもなく彷徨っていれば、なんとかなるというものでもない。家のローンを払うために、ずいぶん多くのものを犠牲にしているひとは、たくさんいるんじゃないかと想像する。
わたしが青年のころのこと、ある中年のひとと酒を飲んだ帰りに、そのひとといっしょにトーキョーのイチガヤという街の住宅街を歩いたことがあった。ここは坂が多い街で、急な坂を上ったり下りたりしながら歩いていくと、古くからあるお屋敷ばかりの街角に出る。立派な門構えに、枝振りのいい巨木がたち並ぶ庭。ひっそりとした夜のお屋敷町を歩いていると、なんだかいい気分になってくる。わたしはいい気分でよそ様の庭を眺めながら歩いていた。古いお屋敷って、いいなあ。どんなひとが住んでるんだろ。入ってみたいぞ。お呼ばれしたら遊びに行っちゃうぞ。お茶会でもなんでもいいから、遠慮なく呼んでくれても、くるしゅうないぞよ(←何様?)。
ところが、いっしょに歩いていたそのひとは、こんなことを言い出した。
「いやだねえ。
こういう屋敷の一軒一軒が、このクニを駄目にしていると思うと腹が立ってくるなあ」
大きなお屋敷がいけないのですか? と訊くと、そのひとはこう言った。
「いや、屋敷にかぎらず、そもそもマイホームってやつがろくでもないんだ。このクニを駄目にしているのはマイホームだな」
またずいぶん極端なことを言う。
大きな家や他人の財産を見ただけで、「どうせろくなことで稼いでないんだろ」と言うような、ひねた野郎は大勢いる。あんまり見ていて気持ちのいいやつらじゃない。
このときも、つまらん愚痴を言うものだと呆れたが、もちろんそのひとは、そういう意味で言っているわけではない。逆に、なるほどと思うところもあった。
ながいあいだ生きていると、「背中を向けてドアから出て行く勇気」が必要なことがある。身体を張って、「否」と言わなくてはいけないときがある。感情からではなく、生き方として。そんなにあることじゃないけれど、拒否しなくてはいけない仕事だってある。しかし多額のローンをかかえていたら、そういうわけにもいかないだろう。
「ねえシンちゃん、ちょっとさあ、例のあのクニから核兵器を密輸するんだけど、ちょろっと手伝ってくんない?」
「報酬は?」
「少なくて悪いけど、ざっと50億くらいでどう?」
「うーん、安いなあ。考えておくわ」
その晩、わたしは苦悩する。窓から夜景を見下ろし、ポートワインの入ったクリスタルのグラスをもてあそびながら、葉巻をくゆらせる。葉巻はロミオ・アンド・ジュリエットの最高級品だ。核兵器密輸なんかに関わっていなければ、いまこうして贅沢な暮らしをしている自分はなかったろう。しかし、もうこんなダーティな仕事からは足を洗いたい。
わたしは決心する。その晩、38人目の妻に向かって、こう切り出すのだ。
「なあ、もう辞めようかと思うんだ。明日からまた貧乏なデザイナーに戻ろうと思う。時給600円くらいで死ぬまで働くような生活に戻るよ」
「じゃあ、この家はどうなるの?」
「手放すことになるだろう。なにもかも」
「明日からは、どこへ」
「トーキョーの真ん中の、杉並区というところの一角に、梅里中央公園という素敵なところがある。当分のあいだは身を隠す必要もあるし、そこのベンチで寝泊まりだな。明日からは健康的なアウトドア生活だ」
「まあ、すてき」
というわけにはいかない。
いや、これは深刻な問題なのである。
なるほど、マイホームがクニを滅ぼす、か。