いっぱしの顔

2006-09-21 09:46:27 | Notebook
     
オヤジになってくると、それなりに「いっぱし」の顔つきになってくる。これがすごく困る。中味をともなわないからである。

小さな会社の社長みたいな、商店のオヤジみたいな、でも文化系の遊び人みたいな、いいかげんな風情のわたしが知らないところへ顔を出すと、勘違いされることがある。

たとえばコンサート会場やライブハウス。
会場のスタッフなどが、目ざとくわたしの視線をキャッチして、目を合わせて微笑みかけてくることがある。とりあえず仕事の面で関係があるひとかどうかを探ってくるような目だ。こういうことは青年のときには経験しない。
そこまでいかなくとも、同じ年代の方なら経験があるかもしれないが、若い方々に交じって会場にいると、スタッフの方が気を利かせてくれて、前のほうの席へ案内されることがある。もちろん丁重にお断りする。若者たちと同じ料金を払っているわけだし、べつに身体が不自由なわけでもないし、老人でもないので、特別な扱いを受ける理由がないからだ。

逆に、ホテルのフロントなどでは軽くあしらわれる。へらっとした服装もいけないのだろう。同じように、しっかりと仕立てのよさそうな地味なスーツを着た、カタギの集まりに出向いていくと、当然ながら相手にされない。名刺をもらえないことさえある。これはすごくホッとする。適切な扱いを受けているからだ。ホームレス同然の、風前のともしびみたいなオヤジとして、身の丈にあった扱いを受ける。これはとても、いいことだ。
しかし、いつもそういう扱いを受けるわけではない。

ようするに、この顔がいけない。黙っていると貫禄さえ漂ってくる。それがそもそも、間違っている。心のなかはいつも、こんなにドキドキ、ハラハラしているというのにっ。見かけの偉そうなオヤジなんて、みんな、そんなもんですよ。

そんなわけで、どこへ行ってもできるだけヘラヘラする必要があって、疲れる。ふつうに黙っていると気難しそうで偉そうに見えるから、そうならないように口を開け、ヘラヘラ、ニコニコする。あいまいな笑みを絶やさない。疲れる。ばかみたいである。近所の犬は怪しんで吠える。勘違いした若者が、なめきったような態度を見せることもある。そろそろやめようかと思う。

ところで、この「いっぱしの顔」を最大限に利用して、仕事を都合良く進めようとするタイプのオヤジもいる。わたしと逆のことをやっているわけだ。
威圧的に相手に接し、偉そうな態度で仕事を進める。過度に父権的なリーダーシップをとる。ほんとうは自分がわるいのに、相手を怒鳴りつけたりする。かなり失礼なことをしているくせに、他人の失礼は許さなかったりする。いい気なもんである。

仕事を効率よく進めるために、チンピラみたいな品のないサングラスをかけ、坊主狩りにし、スポーツジムに通ってムキムキになるひとだっている。日焼けサロンに通うことも忘れない。そうして苦虫噛みつぶしたような表情をつくる。彼の言うことをきかないと殴られそうな雰囲気である。冗談みたいだが、こうするとみんなコワがって、口ごたえしなくなる。おまけに信頼もあつくなる。いいことづくめだ。男たちの人間関係というものは、小学校低学年の時代から一歩も進歩しないのだな、と呆れることがある。

じっさい都会の仕事の現場では「謙虚さ」が似合わないことがある。市井の生活の場では、謙虚さは美しい。しかし仕事の場で謙虚でいると、なぜか誤解される。
職種にもよるだろうが、仕事の場ではなぜか謙虚さが謙虚に見えず、たんにイジイジと、暗く、弱々しく見える。これはゆゆしきことだと思う。青年のころのことだが、正直に謙虚に、ちゃんと事情を話したら、へんな誤解をされて困ったことになった、という経験がわたしにはある。とくにある種の女性は、ペコペコと頭を下げる男はダメに見えるらしい。逆に、過度に偉そうにしていると信頼してくれる。態度が大きく声がでかく、はっきりものを言うと、そういう女性は好感を抱いてくれる。男性にたいして何か夢を見ているらしい。

でもやっぱり人間同士だから、じかに人間性を見ながらつきあってくれる相手だって、ちゃんといる。相手をちゃんとまっすぐ見てくれるひと。よく見て、生かそうとするひと。そういうひとが稀にいて、そういうひとでないと付き合う価値はないのだと思い知るのだが、そんなこと言ってると相手がいなくなってしまうので、しかたがない。ぬえのような相手とも、つきあう。

態度が大きかろうが、いっぱしの顔つきだろうが、どうであろうが、そこになにか「嘘」があると、その嘘が、なぜか蓄積されていくようだ。これがあんがい恐ろしい。この嘘の蓄積は、世間知らずの子どもでさえ瞬時に気づく。なんだか、うさんくさいオヤジだな、笑顔が嘘くさいな、と感じるときは、どこかにこの嘘の蓄積があるものだ。

年をとるごとに、余裕がなくなるのか本性が出てくるのか、ようすがおかしくなっていくひともいる。これはもともと素晴らしかったひとたちが凋落していく姿を見せられるので、すごく悲しい。四十代五十代になってくると、なんだかずいぶん偉いやつになったものだな、と呆れるような人物がけっこう現われる。ひとの仕事への敬意を忘れている。若い未熟なひとへの敬意も忘れている。なにもかも使い捨てである。利用価値のないひととは話もしない。そういう人物にかぎって「いっぱしの顔」を堂々と前へ持ってくる。まるで魔除けのお面みたいだ。

こういうひとは簡単にひとの仕事をボツにしておいて、すまん金は払うなどと平気で言うことがあるが、丁重にお断りする。失礼な話だからだ。それでもこちらは相手との人間のつきあいを大切にしたくて、お金はいらないけど、その代わりに飯でもおごってくださいな、と言うことがある。報酬を無にしてまでの、からだを張った涙ぐましい気づかい、気配り。ところが、それっきり、返事もくれない。はじめは嫌われているのか、あるいは煙たがられているのか、と思ったが、どうやら、そういうことではないらしい。わたしの予想していた範囲より、もっとずっとくだらない、情けない理由のようである。

ときどき、すみきったような老人に出会うことがある。きたならしい爺さんなんだけど、とても綺麗な目をしている。嘘のない表情をしている。そんな顔をひとつふたつ、思い浮かべてみて気づくのは、どの顔もひとつとして「いっぱし」なんかではないということだ。
いっぱしの顔であろうが、なさけない顔であろうが、何だろうが、なにか嘘をついた顔をさらしていたら、ああいう爺さんにはなれないのだろうと思う。