夢を読む生活を長年続けていると、奇妙な世界に生きることになる。いくつもの次元が折り重なったような世界。意識の森。
目が覚める。どんよりと意識がくもっている。水銀のように重い空気のなかで窒息しそうな気分になる。しかしその鬱状態のなかに、とてもたいせつなことが起きていることを同時に悟る。今朝は鬱状態にならなくてはいけなかったのだと知る。
仕事をうしなう。途方に暮れる。しかし同時に、とてもたいせつな運命が目の前で起こりつつあることに気づく。あのとき仕事を手放さなかったら、いまわたしはこのような文章を書いてはいなかっただろう。目の前の光が、こんなにはっきりと見えることはなかっただろう。
他人の発した何気ない言葉のなかに、そのひとのなかで起こりつつある、まったく別のことが、目の前にはっきりと見えてくることがある。それはたいてい重要なことだ。しかし本人は気づいていない。ひとはいつも、いくつもの意味を同時にふくんだ言葉を発しているものだ。しかしほとんどなにも、重要なことはなにも見ていないものだ、わたしを含めて。
いま、わたしの人生のなかで、とても善いことが起きている。いくつかの善いことが起こりつつある。しかしわたしは困惑している。なぜなら、それはいままでのわたしの死を意味するからだ。わたしの現実は、ぜんまいが切れたみたいに、止まっている。
わたしの現実が止まったままの状態を迎えたのは、ながい歴史と経緯がある。父の無意識から受け継いだものと、その病い。母の無意識から受け継いだものと、その病い。それらの病いは、彼らが若い時期に戦争で喪ったものから始まっている。その背景には、さらにその上の、祖父や祖母たちの生のいとなみが存在している。しかし誰も、誰一人として、そのことに気づいていない。
数百年にわたる運命の連鎖。そこからわたしの人生は始まっていて、わたしのなかでは、それがいま終わりつつある。いや、いままでのありようが終わりつつあるのだと言ったほうがいい。
いまのわたしは死を迎えようとしている。わたしにはそれがよく分かる。このプロセスは、もう十年以上前から始まっていたことだ。それが始まったころ、当時の恋人はこう言った。
「ねえ、シンちゃん、死なないでね。いまふっと、なんか、そんな気がしたの」
いまのわたしは、その言葉の意味がよく分かる。
わたしは街に出る。
それぞれが、さまざまな姿に身を曲げながら、大勢のひとが歩いている。
病んだひと。片足を引きずるひと。幼いひと。生き生きとして輝いているひと。
さまざまなひとの群れが、それぞれの病いと間違いや、致命的な欠陥をかかえながら通り過ぎていく。そこにはある種の、神聖さがある。
あと数日したら、わたしはある神社を訪れる。そこで、ある難病にかかった知人のために祈ることになっている。しかしそれを背負うわけではない。なにかをねじ曲げようというのでもない。
わたしには、その病いの別の姿が見える。しかしそれを本人には言わない。それがどんなに善い忠告であったとしても、本人の存在を揺さぶるような批評や意見は、かならず呪われるものだ。
問題点をあげて忠告すれば本人のためになる、などという考えは、子どもの発想だ。かぎられた共同体や仕事のルール上では通用するだろうが、現実はそうではない。われわれがすべきことは、敬意を払うことなのだ。そこから何かが生まれる。
わたしは彼らを、左目から夢の流儀で、右目から現実の流儀で、同時に見る。
そして、そこに古くから続く、大きな流れを見る。
敬意を払うことについて、わたしはかんがえる。それが死よりも優先されることがある。これはわたしの信念ではなくて、目の前で起きている現実なのだ。
もしも神が存在するとしたら、彼はそれに敬意を払っている。べつの言葉で言えば祝福している。それがたとえ本人の息の根を止めるような過ちであったとしても。愚かさや病いであったとしても。たとえその先に死があったとしても。
わたしの目にはそう見える。わたしはそれを、夢を通して知ったのだ。その輝くような神聖さは、目の前にある。大きな群れをなして、そこをあたりまえに歩いている。神聖な光をはなちながら。