脳はケースの中に?

2006-02-18 23:29:48 | Notebook
     
目が覚めて、胸騒ぎがあった。瞼を閉じると、知り合いの女性の姿が浮かんできた。彼女が子どもを傷つけているというイメージだった。
さらに脳裏に浮かんだのは易経の「風地観」と「坤為地」だった。

風地観は文字どおり見ることを示している。何を見るのか。この場合は自分のなかの他者を見ている。だから当然、その自己は分裂している。反目しあっているわけではないが二者の間には距離がある。向こうの自分とこちらの自分を行き来している。揺れ動き、不安定な精神状態。そんなイメージが浮かんできた。
いっぽう坤為地は極端に無意識的な暗示なので、問題が顕在化してはいないはずだ。だから事件は起きていない。しかし気づかれないところで、母と息子は潜在的に傷つけあっている。坤為地には「陰と陽が傷つけ合い血を流し合う」という暗示もある。
わたしは占い師ではないから、以上の解釈に自信があるわけでもない。

そこで易経をテーブルに置いて、何気なくテレビのスイッチを入れたら、信じられないような事件が起きていた。滋賀県のある母親が、幼稚園に通う自分の子どもの友人2人を刺し殺したという。加害者は大津市で逮捕された。
わたしはその加害者を知らないし、わたしが心配したのは別の女性のことだ。
つまり、まったく関係のない事件が、言わば、わたしのなかで繋がったような感覚を得た、というだけのことにすぎない。

ユングの信奉者はここで共時性、つまりシンクロニシティを考えるだろう。しかしわたしは共時性という考えを特別重視しない。
なぜなら、偶然の一致はつねに起きていて、それはわれわれ人間がみな、どれもこれも似たり寄ったりの存在だからだと思ったほうが、よっぽど現実的だからだ。みな似たようなことを感じ、似たようなことをしている。しかもお互いに、影響し合っている。だから同じようなことが同時に起きる可能性はいくらでもあるということだ。

わたしは、テレビで知った痛ましい事件と、自分の心のなかで起きていたことの間に、まるで繋がりがあるかのような「幻想」を抱いた。この幻想は、けっして現実ではない。しかし、わたしたちの現実は往々にして、この「幻想」のほうにあるのだということを、よく見つめてみる価値はあると思っている。神は賽子を振らないかもしれないが、神を認識する人間の実感のほうは賽子を振るのである。

神秘は人間の外側ではなく、実感の側にあると言ったのは石川淳だった。これはありふれた発言のようでいながら、じつはかなり過激な見解だ。とくに文学者の発言としては。なぜなら、ほとんどの文学者は、神秘というものを、人間の外側から来るものとして認識し、そういう作品を書いているからだ。仏教文学にとどまらず、ほとんどの文学が、たとえば運命というものをどう描いているかを思い浮かべてみれば、石川淳の過激さが分かるだろう。

道を歩いている。たまたま交通事故に遭う。ただそれだけのことなのに、わたしたちはその事故に、なにか特別の意味を感じることがある。この意味の感覚は「幻想」だ。ある程度の確率でつねに交通事故は起きていて、たまたまそれに遭遇しただけのことなのに、ことさら自分が不幸に見舞われたかのような錯覚を覚える。なぜ他人ではなくて、このわたしが交通事故に「遭わなくてはいけなかったのか」などと、よけいなことを考える。しかしこの実感のほうに、わたしたち人間のリアリティがあるということだ。わたしたちはきっと、とても狭い世界に生きているに違いない。しかも、その時代にしか通じない、その場だけの人間の感覚の、ごく狭い共感の中だけに生きているに違いない。かなりローカルな世界に。狂人をのぞいては。

鬼束ちひろという若い歌手の「Castle」という歌のなかで彼女は問いかける。「それでも、あなたの脳はケースのなかに?」。いい質問だ。彼女がこの歌でやろうとしたことは、たぶんべつのことなのだろう。しかしこの言葉は彼女の歌に変わらない輝きを添えている。


次の日、つまり今日になって、またわたしは、その女性のことが気になった。そして得た暗示は「水山蹇」と「山火賁」だった。水山蹇は足を悪くして引きずっているという意味だ。その女性はもともと足が悪いので、わたしは易占いが当たったというより、なまなましい嫌な気分になった。もちろんこれは精神状態が傷ついて足を引きずるようにダメージを受けているという意味だ。
そして、山火賁は飾るという意味で、この場合はペルソナを意味する。彼女の社会適応になにか問題があるらしい。おそらくそのあたりに問題の核心があるのだろう。

昨日の事件と似たような、痛ましい事件が今日もあった。娘を殺した父親が、箱根の山奥で自殺したという事件だった。
わたしはうんざりしてテレビのスイッチを切り、もうこのことは考えないようにしようと思った。どのみちその女性とは、もうなんの関係もないのだ。どこにいるのかも分からない。

今日は日が射して明るい日だった。気温は低く底冷えがしたが。
ぽっかりと空いたような青空の下に、人間の小さな箱庭のような空がある。そんなイメージがぼんやりと浮かんでいた。

※写真は、川原田徹さんのエッチング作品より