LA VIE EN ROSEのプロムナード(散歩道)

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23/2/26 今日は、『二・二六事件』の日です

2023年02月26日 19時00分14秒 | 社会・世界・重大事件・経済

◆ 今日は、『二・二六事件』の日です

 青年将校が立ち上がった『二・二六事件』 

◆ その原因とは:「青年将校の掲げた昭和維新」

今から約80年前の1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清、斎藤実など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。

◆ この事件の背景:

 この事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。

 こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発しました。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれました。

 このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。

 実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。ちなみに、当時の陸軍には「統制派」と「皇道派」という2つの派閥がありました。

 「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥です。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えています。

 これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派です。

両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきました。

これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。

 青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張しました。

 時の陸軍大臣も、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった訓示を出すなどして、事件を起こした青年将校の要求に沿うように見えましたが、思いもかけぬ誤算だったのは、「皇道派」が最も崇敬していた昭和天皇は、彼らを「賊徒」(政府に対する反逆者)と見なしたことでした。自分の重臣たちを殺されたことに、昭和天皇は激怒し、自ら早急な鎮圧を陸軍大臣に指示しました。天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことでした。

 しかし、同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらいました。すると天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したといいます。ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めました。その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせました。将校の二人は武力行使の責任をとって自決しましたが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監されました。

◆「排除」は解決にならない『二・二六事件』後の処刑に学ぶ

 『二・二六事件』のあと、首謀者であった軍の将校をはじめ多くの人が死刑となりました。また、民間右翼・北一輝らがこの事件に深く関与しているとして死刑になりました。1993年に、それまでないとされていた裁判記録が一部公開され、人々により、さらに研究が進むと思われます。

 岡田啓介首相に代わって、新しく内閣総理大臣となった広田弘毅首相は『思想犯保護観察法』を成立させます。この法律は「危険思想によって罪を犯した人物が、再び犯罪を起こさないように監視する」というものです。

 『二・二六事件』で武力行使を起こした将校たちを意識した法律であることは誰の目から見ても明らかで、これ以降、思想行動の監視が強化されます。

 また、陸軍の実権を握った「統制派」は、広田弘毅が組閣する際、さまざまな口をはさみ、さらに『軍部大臣現役武官制』が復活し、軍の了解なくして内閣が存続できないようにしました。このように『二・二六事件』をへて、ますます軍部の政府に対する力は強まっていったのです。

 この事件が教えてくれるのは「排除では何も変わらない」ということ、暴力などによる政治の改変はいけないことだということです。

 自分の思っていることや考えが伝わらないのは辛いことです。この時代の悲劇もありますが、自分の意見を聞いてくれない相手を排除したとしても、聞いてほしいところにその意見が伝わるわけではありません。一切聞く耳を持たなくなってしまう可能性もあります。

 誰かに自分の意見を届けたいと思ったら、邪魔な相手を排除するのではなく、別のやり方を考え、意見を届けることを諦めずに実行していくことです。そうすればいずれ、その人の目に留まるようになるでしょう。

 青年将校が立ち上がった『二・二六事件』 その原因を調べていて感じた事は、コロナ不景気のなか政党内閣は適切な対応をとらず、また贈収賄事件・汚職事件が続発し、また、巨大な資本だけが肥え太る経済格差、所得格差の格差社会状況が生まれている、今の日本の政治・社会状況に似ているという事でした。

 暴力などによる政治の改変はいけない事ですが、でも、

今のおかしい日本を変える、『二・二六事件』立ち上がった青年将校のようなリーダーシップのある人間がいない事です。


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