LA VIE EN ROSEのプロムナード(散歩道)

私達の毎日の生活は”プロムナード(散歩道)”です。散歩道で発見した出来事を日常世界ふしぎ発見!でご紹介して行きます

高校講座 (1)【簿記】 (2)【地学基礎】 (3)【日本史】 (4)【仕事の現場】

2018年06月28日 21時30分44秒 | 学習
【私だけの学習メモ】 高校講座を視聴していない方には、何の事やらさっぱりわからない私だけの学習メモですので、全く読む必要はありません。

頑張って高校講座で勉強しました。

今日の教科は;

【簿記】 第14回 取引の記帳 これも資産? ~有価証券・固定資産~

これも資産?~有価証券・固定資産~

今日も絶好調!「有価証券を買おうと思っている」というオーナー店長のさかっち(酒井瞳さん)。
そして、アルバイト従業員の莉奈ちゃん(松田莉奈さん)と祥伍くん(石井祥伍くん)。
今回も、3人と一緒に簿記を学んでいきましょう☆

▶有価証券とは?

わたび~さん
有価証券とは、株式、社債、公債の3つ

簿記でいう有価証券とは、株式、社債、公債の3つです。
株式は、株式会社が資本を調達するために発行するものです。
社債は、株式会社などが長期の資金を借りるために発行するものです。
公債は、国債などのことです。
そして、これらの有価証券は資産にあたります。

株式
社債や公債の場合には、定期的に利息を受け取ることができる

株式を持っていると、その会社から配当金を受け取ることができます。
また、社債や公債の場合には、定期的に利息を受け取ることができます。

▶有価証券の記帳

莉奈ちゃんと祥伍くん
取得原価=買入価額+買入手数料など

有価証券を購入したときの仕分けは次のようになります。
(借)有価証券 ×××  (貸)当座預金 ×××

有価証券を購入したときには、有価証券という資産が増えるので、借方は有価証券です。
金額は取得原価となり、
取得原価=買入価額+買入手数料など
で求めることができます。

▶簿記マスター演習~有価証券の記帳~

取得原価は¥607,000
借方に金額(607,000)、そして相手の勘定科目(有価証券)を記入

有価証券を買った場合の記帳についてです。
最初は株式について、次の例で考えてみましょう。
「さかっち商店はA社発行の株式10株を1株につき¥60,000で買い入れ、代金は買入手数料¥7,000とともに小切手を振り出して支払った」

このとき、買入価額は¥60,000の株を10株買ったので、¥600,000。
取得原価は
¥600,000+¥7,000=¥607,000
となります。
ですから、仕訳は以下のようになります。
(借)有価証券 607,000  (貸)当座預金 607,000
これを有価証券勘定に転記します。
借方に金額(607,000)、そして相手の勘定科目(有価証券)を記入しましょう。

さかっち商店は額面金額¥1,000,000の社債を額面¥100につき¥98で買い入れ、代金は小切手を振り出して支払った
買入価額の¥980,000が取得原価

次に社債の購入について考えてみましょう。
「さかっち商店は額面金額¥1,000,000の社債を額面¥100につき¥98で買い入れ、代金は小切手を振り出して支払った」

まず、取得原価を求めます。
買入価額は
¥1,000,000に¥98/¥100をかけて、¥980,000と求められます。
買入手数料がないので、買入価額の¥980,000が取得原価となります。
ですから、仕訳は以下のようになります。
(借)有価証券 980,000  (貸)当座預金 980,000
これを有価証券勘定に転記します。
借方に金額(980,000)、そして相手の勘定科目(当座預金)を記入しましょう。

帳簿価額¥607,000の株式10株を¥620,000で売却し、代金は現金で受け取った
仕訳

今度は、有価証券を売った場合の記帳についてです。
有価証券を売るときには、有価証券勘定などを見て、帳簿価額を確認するようにすることが大切です。
帳簿価額とは、総勘定元帳などの帳簿に記録されている価額のことです。

次の取り引きを例にして考えてみましょう。
「帳簿価額¥607,000の株式10株を¥620,000で売却し、代金は現金で受け取った」

株式は売って、手元になくなったということです。
そして、帳簿価額と売却代金の差額の¥13,000は、売却による収益になることに注意しましょう。
仕訳は以下のようになります。
(借)現金 620,000  (貸)有価証券    607,000
                  有価証券売却益  13,000

帳簿価額¥980,000の社債を¥970,000で売却し、代金は現金で受け取った
仕訳

次の例です。
「帳簿価額¥980,000の社債を¥970,000で売却し、代金は現金で受け取った」

先ほどの株式の場合と同じように考えましょう。
社債は売って、手元になくなったということです。
そして、帳簿価額と売却代金の差額の¥10,000ですが、売却によって損をしているので、有価証券売却損となることに注意しましょう。
仕訳は以下のようになります。
(借)現    金 970,000  (貸)有価証券 980,000
   有価証券売却損 10,000

▶固定資産の記帳

固定資産
買入手数料や整地費用、登記料などが付随費用

固定資産とは、1年をこえる長期にわたって企業が所有する資産のことです。
例えば、建物や土地、備品などが固定資産にあたります。

固定資産の記帳の際にポイントとなるのは取得原価です。
固定資産の取得原価=買入価額+付随費用
で求めることができます。
付随費用は、固定資産を活用するまでにかかった費用です。
例えば、建物を取得した場合には、買入手数料や整地費用、登記料などが付随費用となります。

わたび~1号
仕訳

わたびーの自転車「わたび~1号」は、取得原価が¥100,000の固定資産!
これを例に固定資産を買い入れたときの記帳をしてみましょう!
自転車は車両運搬具勘定に記入します。
ですから、仕訳は以下のようになります。
(借)車両運搬具 100,000  (貸)現金 100,000

▶簿記マスター演習~固定資産の記帳~

備品を帳簿価額よりも安く売ったので損をしている
仕訳

備品を売却したときの記帳について、次の例で考えてみましょう。
「A商店は帳簿価額¥500,000の備品を¥400,000でB商店に売却し、代金は小切手で受け取り、ただちに当座預金に預け入れた」

この取り引きでは、備品を帳簿価額よりも安く売ったので損をしています。
固定資産を売却したことによる“損”なので、固定資産売却損を借方に記入しましょう!
損をした金額は、売却価額と帳簿価額の差額になります。
ですから、仕訳は以下のようになります。
(借)当座預金    400,000   (貸)備品 500,000
   固定資産売却損 100,000

この例では、固定資産を売却して損をしたので固定資産売却損勘定を使いました。
逆に、売却して収益が出た場合には、固定資産売却益勘定を使います。

▶簿記の“キモ”

粕谷和生先生
次回もお楽しみに~!

最後に、簿記を教えて38年!粕谷和生先生に簿記のキモを教えてもらいましょう!

さて、今回学んだ有価証券の仕訳は、株式や社債を買った側の仕訳です。
株式や社債を発行した側の仕訳は、まったく別の仕訳となるということを覚えておいてください。
また、今回の学習では、固定資産の例として自転車が出てきました。
国税庁が出している資料によると、自転車を固定資産として使用できる期間は2年となっています。
これを耐用年数といいます。
「わたび~1号」も、立派な固定資産ということですね!


【地学基礎】第19回 第3編 地球 地球の構造

「地球内部の調べ方」「地球の層構造」「地球内部の構成物質」

地学基礎では、地球調べ隊の関口隊長と垣内隊員、そして地球調べ隊の顧問の先生が、地球の謎に迫ります!

今日のテーマは、「地球の構造」。
私たちの星、地球内部の構造は、ゆで卵の断面と、よく似ていると言います。
一体、地球内部はどんな構造になっているのでしょうか?

今日のキーワードは、「地球内部の調べ方」、「地球の層構造」、「地球内部の構成物質」です。


地球の内部は目で見ることができません。そのため、昔の人は地球内部の構造をいろいろ想像していました。

例えば、18世紀には、「地球空洞説」、というものがありました。
地球の中は外とつながっていて、その内部はがらんとした空洞になっています。しかもその中心には輝く星がある、というものでした。

しかし、現在では科学の力によって、地球内部の構造を調べることができるようになりました。その結果、地球が層構造であることや、地球内部を構成する物質がどんなものであるのかが分かってきたのです。

地球内部の構造を調査する方法の一つが、「地球の内部を掘り進む」、というものです。地球深部探査船・ちきゅう は、海底にパイプをおろし、そこからドリルで掘り進んで地球の内部を調べることができます。海底を掘り進み、マントルへの到達を目指しています。

地球の半径はおよそ6400㎞。そのうち、地表の部分は深さ数㎞から70㎞くらいまで、地殻と呼ばれる岩石の層になっています。地球深部探査船・ちきゅう が目指しているマントルは、地殻からさらに下の層、地表から深さ2900㎞くらいまで続く層です。
そして、マントルからさらに下の層、地表2900㎞から5100㎞くらいまでは外核、さらにその内側、地表5100㎞から6400㎞くらいまでの内核と続きます。

しかし、地球深部探査船・ちきゅう でさえ、まだマントルの層に到達していないというのに、どうしてマントルや外核、内核などという地球内部の構造が分かっているのでしょうか。

地球の層構造を調べるには、地震波を利用します。

地震波には、P波とS波の2種類の波があります。
P波は、波の進む方向と同じ方向に振動する縦波で、地震波では、最初に地震が来たことを感じる波です。一方、S波は波の進む方向と直角方向に振動する横波で、地震の大きな揺れをもたらす波です。

P波もS波も地震発生とともに地球の内部を伝わっていきますが、その伝わり方に違いがあります。

P波は、気体、液体、固体の中を伝わります。しかし、S波は、固体の中しか伝わりません。
そして、P波もS波も、波を伝える物質の種類や状態が変わると、波の伝わる速さが変わるという性質があります。

波の伝わる速さが変わると、ある現象が起こります。
その現象を、地震波の代わりに、同じように「波の性質を持つ光」を使って実験してみます。

丸い容器の中は、空気で満たされています。
そこに、地震波に見立てたレーザー光線を通してみると、波は一様な物質の中では、まっすぐに進むことが分かります。

次に、容器の下半分に水を入れます。
光を通してみると、空気と水の境目で光が曲がりました。
一般的に、波が異なる物質の境界に斜めに進むとき、このように折れ曲がる現象を屈折といいます。

地震波の屈折や反射などの性質、さらにS波とP波では伝わる物質が異なるという性質を利用すると、地球内部の様子を調べることができます。

世界中には地震計がたくさん設置されています。そこで、実際に起こった地震や、人工的に起こした地震で、地震波がどのように地球の中を進むのか調べてみました。
中の図が、その結果の一例です。
地球の内部深くには、S波(青線)が伝わらない部分があることが分かります。
また、P波(赤線)が屈折や反射を起こす境界があることも分かります。

このような測定の結果から、
地球の内部は、地殻とマントルが固体、外核は液体、内核は固体という層構造をしていることが分かったのです。

では、地球内部はどんな物質でできているのでしょうか?

地殻は主に2つの岩石、花こう岩と玄武岩からできています。
花こう岩は主に大陸の地殻に、そして、玄武岩は主に海洋の地殻にあります。

地殻の下のマントルも岩石でできています。主なものは、かんらん岩です。
かんらん石は、8月の誕生石・ペリドットという宝石の原石で、マントルには他の宝石の原石も多く含まれています。

ペリドットは垣内隊員の誕生石です。
そこで、垣内隊員はペリドットや他の宝石を調べに山梨宝石博物館にやって来ました。ここには、世界中から集められた宝石とその原石が展示されています。

迎えてくれたのは、地球調べ隊顧問、渡来めぐみ先生です。

マントルに含まれる宝石の原石の一つにダイヤモンドがあります。
ダイヤモンドはマントル上部の地下150㎞から200㎞の温度や圧力のもとで炭素が結晶化したものです。
その結晶を磨くことで、美しい輝きを放つダイヤモンドの宝石になるのです。

ペリドットの原石はかんらん石です。かんらん石は、マントルに含まれている鉄、マグネシウム、二酸化ケイ素という成分が、高い温度、圧力という条件のもと結晶化したものです。
かんらん石を磨くと、垣内隊員の誕生石・ペリドットになるのです。

では、核は何でできているのでしょうか。

左の写真は、宇宙から地球に飛んできた鉄いん石です。鉄いん石は、主に鉄、ニッケルという金属からできていますが、核を構成している成分は、鉄いん石とよく似ていると言われています。
地球の中心・核は主に鉄とニッケルでできていると考えられています。

外核は、これらの金属が溶けて液体になっていると考えられています。一方、内核は圧力が極めて高いので押しつぶされて固体になっていると考えられています。温度や圧力の関係で液体だったり固体だったりするのです。




【日本史】第18回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開 江戸幕府の確立


江戸幕府の確立

日本史監修:東京大学史料編纂所教授 山本 博文

学習ポイント

一.江戸幕府の成立 二.大名の統制 三.朝廷・寺社の統制

今回の時代と三つの要

今回は16世紀末~17世紀の江戸時代
江戸幕府を開いた徳川家康

今回の時代は16世紀末~17世紀、主に江戸時代です。

天下統一を果たした豊臣秀吉がこの世を去った後、代わって台頭し、江戸幕府を開いたのは徳川家康でした。
家康はどのようにして江戸に幕府を開き、天下を治めていったのでしょうか。

今回押さえるべき三つの要は、

一.江戸幕府の成立
二.大名の統制
三.朝廷・寺社の統制

二百年以上続いた、天下泰平の世と言われる江戸時代の幕開けを見ていきます。

▶要 其の一 「江戸幕府の成立」

秀吉の死後、五大老・五奉行で執政し家康が台頭
東軍と西軍の二陣営

1598年、天下統一を果たした豊臣秀吉が病でこの世を去ります。秀吉の後継者は息子の豊臣秀頼でしたが、秀頼はこの時わずか6歳でした。
そのため、政治は五大老と五奉行によって行われました。その中でも、五大老の筆頭だった徳川家康が台頭していきます。

豊臣政権に対抗する家康に反感を抱いたのが、五奉行の一人、石田三成でした。
三成は、家康が会津の上杉景勝(かげかつ)の謀反を口実として諸大名を率いて関東に向かった機をとらえ、兵を挙げます。

東軍は徳川家康を中心として、加藤清正、福島正則、黒田長政らが名を連ねます。それに対して石田三成を中心とする西軍には、小西行長、毛利秀元、小早川秀秋らがつきます。

岐阜県の関が原で決戦
家康の政治戦略で東軍が勝利

こうして1600年、二つの陣営に分かれ、天下分け目の決戦といわれる“関ヶ原の戦い”が起こります。家康の巧妙な政治戦略もあって、小早川らが裏切り、この戦いは東軍の勝利に終わりました。
敗れた三成は処刑され、西軍の諸大名は、領地を没収される“改易”や領地を削減される“減封”の処分を受けました。

こうして家康は、全国の大名に対する支配権を確立しました。1603年、家康は朝廷から武士の頂点である征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。

しかし、これで江戸幕府による支配体制が完成したわけではありませんでした。大坂城には、秀吉の子どもの秀頼がいたためです。

征夷大将軍になって2年で息子に地位を譲る

家康は、征夷大将軍になったわずか2年後の1605年に、息子の秀忠に将軍の地位を譲ります。徳川家が代々将軍を受け継いでいくことを示すためです。そして現在の静岡県にある駿府(すんぷ)に隠居しますが、大御所と称し、引き続き政治上の実権を握り続けていました。

豊臣に言いがかりをつける
豊臣秀頼は家康のつけた条件を拒否し戦に

一方、大坂城では、秀吉の息子の豊臣秀頼が権威を保っていました。
家康は、大坂城で君臨する豊臣家の存在は、天下を治める妨げになると考えました。そこで、秀頼が新たに作らせた京都の方広寺の釣鐘に刻まれた小さな文字に目をつけます。
国の平和を願った「国家安康」の文字に対して家康は、「これは家康の名前を分断するものだ」と、いいがかりをつけたのです。

許しを求めてきた豊臣家に、家康は、

・秀頼が徳川の臣下に下る
・母親を人質に出す
・秀頼が大坂城から退去する

という厳しい条件をつけます。
つまり、徳川の支配下に豊臣が入るというものでした。

豊臣側はそれを拒否し、大坂城に兵を集めました。
家康は、1614年の冬と、翌年の夏の二度に渡って大坂城を攻めました。
この大坂 冬の陣・夏の陣で、圧倒的な兵力の幕府軍によって大坂城は落城し、豊臣秀頼は自害しました。

豊臣家の滅亡によって、名実共に徳川家が日本を支配していくことになります。

家康を演じたことがある高橋館長は、家康の性格を一言で表すと、「“辛抱強い”に尽きる」と話します。関ヶ原の戦いの後、豊臣氏を滅ぼすまで、15年もかかっているためです。

山本 博文 先生
関白の豊臣と将軍の徳川の共同政権という観測もあった

家康が、豊臣氏を15年かけてでも倒さなければならなかったのには、理由があるといいます。
その理由について、特別講師の山本 博文 先生(東京大学史料編纂所 教授)に話をうかがいます。

山本先生によると、家康が関ヶ原の戦いで勝って征夷大将軍になっても、そこには問題があったのだといいます。
当時の京都の公家の間では、秀吉の息子の秀頼が関白になり、将軍の秀忠と一緒に政治を行う共同政権のような形になるという観測があったといいます。
あるいは豊臣家が徳川家にとって代わって、徳川が豊臣に政権を返すという見方もあったのだそうです。

また、1611年に、成長した秀頼は、家康に挨拶に行きます。その際、家康は秀頼があまりに立派になっていたため、このままにしておくと豊臣家に徳川家がとって代わられるかもしれないという危惧を抱いたといいます。

それ以来、家康は豊臣を陥れる機会を虎視眈々と狙い、落ち度につけこんで豊臣家を滅ぼすことになります。

勝利宣言のような元号の変更

家康は、大坂夏の陣に勝った後、元号を元和(げんな)に変えることを朝廷に頼みます。

天皇が代わっていないにもかかわらず年号を変えたのは、「ここで時代が完全に変わったということを示したかったのではないか」と、山本先生は話します。
つまり元和という元号は、最終的に徳川家が勝利して天下人になったという勝利宣言のようなものであったといいます。

▶要 其の二 「大名の統制」

親藩と譜代を江戸周辺や要地に、外様は遠隔地
大名の行動を取り締まる法典

その後の徳川家が、全国の諸大名をどのように治めていったのかについて見ていきます。

江戸幕府が特に力を入れたのが、大名の統制です。
江戸時代、将軍直属の武家で、1万石以上の領知を与えられたものを大名といい、大名は全国で二百数十家ありました。

それぞれの大名は、将軍との関係や家の格などによって以下のように分類されました。

親藩…徳川氏一族の大名
譜代…関ヶ原の戦い以前から家康に仕えた大名
外様…関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名

親藩と譜代は江戸の周辺や全国の要地に、外様は江戸から遠く離れた遠隔地に配置されました。
そして、全国の大名の監視や将軍家の血縁の維持などを目的に徳川姓を名乗ることが許された御三家を尾張、紀伊、水戸に配置しました。
大名が領地を支配する組織を“藩”といい、藩を幕府が支配する仕組みを“幕藩体制”といいます。

さらに幕府は1615年、一国一城令を出し、諸大名が持つ城の数も制限します。この命令は、大名が住む城以外の城を取り壊すというものです。大名たちが多くの城を持つことで、必要以上の戦力を所有することを防ぐためでした。

次いで、大名の行動を取り締まる法典、武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定します。武家諸法度には、「城を勝手に修理してはいけない」「幕府の許可なく大名たちの間で、結婚をしてはいけない」などと定められていました。

加賀藩の大名行列
参勤交代は大名にとって大きな負担だった

三代将軍 家光は、武家諸法度を改定し、参勤交代の制度を加えました。これにより諸大名は1年おきに江戸と領地を往復し、領地に帰るときには、人質として自分の妻子を江戸に残すことを義務づけられました。

加賀藩の前田氏の参勤交代の大名行列を描いたものです。現在の石川県、金沢から江戸まで、13日かけて旅をしています。行列には2000人余りが参加し、宿泊費や食費など、多額の費用を費やしました。
参勤交代は、全国の大名を江戸幕府に従わせるための厳しい決まりでした。大名たちには、大名行列の旅費に加えて江戸での生活費など、大きな負担がかかりました。

徳川家は、家康から3代将軍の家光にかけて制度を整え、幕府の地位を確かなものにしていきました。

武家は寺社や朝廷との関係に常に悩まされてきた

土保 「城を壊せとか、勝手に結婚できないとか、かなり自由を奪われたのに、大名たちは反抗しなかったんですね。」
高橋館長 「それはやはり、大名の妻子を人質として江戸に住まわせたことが大きかったのではないでしょうか。」
向井地 「江戸幕府は、全国の大名をうまく支配して、もう敵なしだったんですか?」
高橋館長 「思い出してください。武家は朝廷や寺社との関係に苦労してきましたよね。」
向井地 「そういえば織田信長は、延暦寺を焼いてしまったと習いました。そのくらい、当時のお寺や神社は、手ごわい存在だったんですね。」
高橋館長 「そうなんですね。そこで、江戸幕府がどのように朝廷や寺社を治めていったのか見てみましょう。」

▶要 其の三 「朝廷・寺社の統制」

江戸幕府の政治組織
朝廷や公家に対する規定も設けた

江戸幕府の政治組織は、家光の頃までに整備が進み、将軍のもとで3名から6名の老中が中心となって政務の取り扱いを行いました。その老中を補佐する若年寄は将軍直属の武士で、旗本や御家人に関する政務を扱いました。一方、地方には、将軍直属の組織として京都所司代を置きました。京都所司代は、朝廷と西国の大名の監視を行うための役職でした。

さらに江戸幕府は1615年、朝廷や公家に対する統制法、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を定めます。その中で、「天皇は学問を第一とする」などと説き、天皇の権限を年号や暦の制定など形式的なことだけにとどめました。この禁中並公家諸法度は、歴史上初めて、武家の定めた法により天皇の行動を規定したものでした。

本末制度で全国の寺社に幕府の統制が及ぶように

また寺社に対しても将軍直属の組織として寺社奉行を設置し、“寺院法度”を出して、全国の寺社の管理や宗教統制を行いました。幕府は、宗派ごとに本山が末寺を統制する本末制度を確立し、全国の寺社に幕府の統制が及ぶようになりました。このように江戸幕府は、それまで以上に強く、寺や神社を支配していきます。

高橋館長は、「徳川家は、それまでの歴史の中からいろいろなことを学び、いかしていったのではないか」と話します。

▶日本の歴史 いとをかし

参勤交代はお金を使わせる目的ではなかった

引き続き、山本先生に話をうかがいます。テーマは参勤交代についてです。

参勤交代の費用は、藩にとっては、とても大きなものだったといいます。
加賀藩の場合、現在の通貨で考えると、道中費用だけで約4億円もかかりました。

山本先生 「2000人ぐらい連れてくるものですから、宿代もいるし、いろいろお金がかかるわけですね。それだけのお金を使って参勤交代をしなくてはならないため、参勤交代は大名にお金を使わせることで勢力をそぐために行ったという説が昔からあります。しかしそうではなくて、そもそも参勤交代というのは、大名が江戸に来て、将軍に挨拶するという儀礼なんですね。つまり大名が将軍に服属するという態度を表明することが目的であって、お金を使わせるというのはその結果に過ぎません。」

高橋館長 「今でいうと、栃木や群馬とかあの辺は江戸が近いから、ずいぶん助かりますけど、逆に西の方の人は大変ですね。」

山本先生 「九州あたりは大変ですけど、それも隔年で江戸までやってきます。挨拶しないと反逆者として討伐されますから、絶対来ないといけないんですね。大名たちは自分だけではなく、妻子も江戸に置きます。だんだん時代が下っていくと、大名の子どもは、江戸で育って江戸で成人して江戸で大名になるんですね。つまり、江戸の方がなじみのある場所になるわけです。大名がみんな江戸にいるものですから、江戸の中で大名同士のつながりや、婚姻関係も結びますし、文化的な交流も生まれます。で、それを国元に帰って、そこでまたみなに教えるということになります。」

高橋館長 「文化の発展にもつながるということですか。」

山本先生 「そういう良い点もあるわけですね。」

AKB48の三人 「ありがとうございました!」

向井地 「館長、家康ってどんな人だったんですか?」

高橋館長 「何回かいろんな役を演じる中で家康さんもやりましたけど、健康オタクだったみたいですよ。すごい健康に気を使って。」

高橋館長から家康の意外な人間像を聞き、ますます興味が湧くAKB48の3人でした。



【仕事の現場】 第17回  ヘアメイクアーティストの仕事

メイクやヘアセットでその人の魅力を引き出したり、さらには雰囲気や表情を変えて、変身させることもできるヘアメイクアーティスト。技術やセンスが求められる仕事です。華やかなイメージのあるこの仕事に憧れている人も多いのでは。どうすればこの仕事に就けるの? 実際の仕事の内容は? アシスタントって何をするの? この仕事の苦労ややりがいなど…。ヘアメイクアーティストの仕事のrealを先輩がいろいろ語っちゃいます。

ナビゲーター:野呂佳代 今回の働く先輩:KAORIさん

KAORI(かおり)さん
フリーランスのヘアメイクアーティスト、36 歳*。
職歴11 年。

高校卒業後、事務職に就いた。そこで初めてヘアメイクの仕事をしたいと、ヘアメイクアーティストの専門学校・メークアップアーチスト学院に入学。卒業後、アシスタントとして3 年間修業し、フリーのヘアメイクアーティストとして独立。

ファッション誌やテレビ、CM、PV、CDジャケットなどを手がけ、主にタレント・アーティストのヘアメイクを担当。
高校生のときは、自分が何をしたいのか見つけられず不安だったが、今はやりたい仕事ができて楽しい。
ヘアメイクアーティストの仕事は、自分が一番打ち込めるもの、この仕事があるから自分があるとKAORI さんは言います。

お仕事データ【ヘアメイクアーティストの仕事をするには?】

メイクや美容の専門学校などを卒業して、化粧品メーカーやヘアメイクの事務所(プロダクション)、ブライダルサロンなどに就職するのが一般的です。また、フリーランスのヘアメイクアーティストに弟子入りして修業し、独立するケースもあります。
活躍の場や働き方はさまざまです。例えばテレビや雑誌などの仕事の場合、勤務時間が早朝から深夜になることもあり、不規則になります。

一方、化粧品会社やブライダルサロンなどの企業に勤務する場合、勤務時間は決まっていることが多く、予定が見えやすいといえます。
給料も、企業に就職する場合は固定給となりますが、フリーランスの場合は依頼内容ごとに報酬が変わるため、年収もさまざまです。ヘアメイクアーティストとして働くには、特に資格は必要ありませんが、美容師の国家資格を取得している人が多いようです。
メイクに関する民間資格はいくつかあり、キャリアアップや就職の際のアピール材料として取得する人も多いようです。




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