2007年初版 谷口由美子/訳
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「作家別」カテゴリー内「ローラ・インガルス・ワイルダー」に追加します
第一部は、ローラがローズの住むサンフランシスコへ一人旅に出た際、夫マンリーに書いた手紙
万博のきらびやかな美しさ、初めて海を見た感動など
旅好きなローラの感動が伝わる
第二部は、ローラとマンリーがデ・スメットに里帰りして、グレイス、キャリーと再会した時の記録
ローズからもらったクルマを運転するマンリー
愛犬も死んじゃうんじゃないかと心配するほどとんでもない暑さの中
キャンプ場を転々とする、結構、過酷な旅なのが伝わる
どちらも行程の道のりが地図に描かれていて
州をまたいだ長い距離を移動したことがひと目で分かる
【内容抜粋メモ】
■はじめに ロジャー・リー・マクブライド
レシピ、写真、新聞記事などの入った箱の中に
ローラがアルマンゾに出した手紙、絵葉書の束を見つけた
1957年、ローラが亡くなり、ローズが箱にしまっておいたもの
1968年、ローズが亡くなると、私は友人、遺言執行者として調べた
ローラはパイオニアガール(開拓娘)
1885年、アルマンゾと結婚、デ・スメットで農業をしたが暮らしが立たず
アルマンゾは灯油を売る仕事をし、ローラは経理を担当
ローラはのちに有名な作家となる
ローズは電信技手として働き、不動産セールスウーマンになり
1914年、サンフランシスコ・ブリティン紙の人気記者になる
以前からローラにサンフランシスコに来るよう誘い
1915年、パナマ・パシフィック万博の開催に招待した
ローラとアルマンゾの両方が農場を離れるわけにはいかず
ローラだけが旅に出た
当時、ローラは48歳、ローズは29歳
■サンフランシスコ 世界に愛される町 作家マーゴット・パターソン・ドス
8月末にやって来たローラは、ラッシャン・ヒルの丘の上に建つ家に2か月滞在した
第一次世界大戦の耐乏生活の最中だったため、ローラはなおさら豊かさを強く感じたに違いない
■
サンフランシスコへ
1915年 ローズはローラにホームシックで母に会いたいと手紙を書いた
父の姉もローラという名前だから区別するため、ミドルネームのエリザベスからとって
“ベス母さん”と呼んでいた
3か月は滞在してほしいと書いている
「飛行機に乗ったり、タコも食べてみましょう」
ローラは旅に出て、農場に残る夫アルマンゾに手紙を書いた
●1915年8月21日 ミズーリ州スプリングフィールド メイベルの部屋で書いた手紙
「あなたとインキー(飼い犬)は元気ですか?」
この後もずっと、手紙の最後はこの2人への気遣いで締めくくられている
カンザスシティから汽車に乗る
線路が洪水で流失して15分遅れたとか
乗り換えのたびに待たされてクタクタになってる
汽車で近くの席になったフランス人の老紳士ヴィクター・ブルンさんが親切にしてくれて
旅好きだから、家にも訪ねてほしいと約束する
●8月25日
あなたが一緒だといいのにとつくづく思います
●8月26日 ネバダ州のどこか
人が砂嵐で行方不明になったり、喉の渇きで死んだりなどと新聞で読む砂漠です(相当だな!
●8月29日 サンフランシスコにて
ジレット(ローズの夫)が迎えてくれた
ランズ・エンドで生まれて初めて太平洋を見た
言葉で言い表せない美しさ
波に足を浸した
中国や日本の海岸を洗っていた同じ海水が、海を渡ってやって来て私の足を洗った
サンフランシスコはとても美しい所です
万博は北極光(オーロラのこと?)のような光の祭典
「空中観覧車」て、家ごと上がってる/驚×5000 こわっ
●9月4日
都会の生活を見れば見るほど、田舎が恋しくなる
パイオニアマザーの像を見学
ナバホ・インディアン(アメリカ先住民)の村を見学
日本の相撲も見た!
南洋の島サモアの村ゾーンを見学
ここを楽しんでいるが、ロッキーリッジが恋しくてたまらない
●9月7日
チャイナタウンの中国喫茶店でお茶を飲んだ
中国料理はあまり好かない
●9月8日
ウォーターフロント
カリフォルニア・フルーツ協会の缶詰工場
●9月11日
ローズの書いた『追跡者エド・モンロー』について
どの話も全部実話
リトル・イタリー、チャイナタウン、日本人街を散策
●9月13日
船を見ながら、あなたに手紙を書いていられるなら
1日ずっとそうしていられますよ
午後はヨットレースを見た
もうホームシックになっているけれど
せっかくだから帰るまでに少しでもたくさん見ておくべきという気持ちもある
ローズに手伝ってもらって書くコツをつかんで、売れるものが書けるようになればいいと願っている
●9月15日
プレシディオという陸軍基地を見た
このような軍事施設が海岸沿いにずっとあり、隠れた銃がゴールデンゲートを守っている
ジレットに中尉の友だちがいて、戦艦をくまなく見せてもらった
●9月21日
馬好きなマンリーのために馬の話も書いている
日没に船で湾へ遠出した
チャップリンの映画を観たが、演技がひどかった(w
ジレットはアルバイトで定職がなく、ローズが2人分の生活費を稼いでいて
いつも多忙なことを何度か繰り返し書いてる
ローラの世代だと、夫が妻に食べさせてもらってるって理解しがたいかもしれないな
ローズとジレットは生活を始める時、ローラとマンリーから250ドル借りていたようで
それを今すぐ返してもらうのはムリがあると思っていた感じ
●9月23日
サンタ・クララ・ヴァレーを見た
ローズは両親を自分たちの近くに住むよう勧めていたっぽい
ローラは一緒にいろんな土地を見ながらも、今住んでいる場所が一番だとマンリーに書いている
●9月28日
汽船フェリーでバークレーに行った
ローラは船で感じる風や揺れを楽しんで、大きな船だと揺れないから楽しくないと書いているw
バークレーは住宅の町
ギリシャ劇場を見学
●9月29日
昨日の午後はずっと万博にいた
オーストラリア館でカンガルーとワラビーを見た(ローラは動物好きだな
ハワイの庭園ではハワイアン・バンドがハワイの歌を奏で、歌った
製造業館でキーン・カッターの展示を見た
●10月4日
日没を見に船で出かけた
私は後々残るようなものを書きたいと考えているが
ローズのようにあくせく働く気にはなれない
●10月6日
画家のバータに会いに行った
家にメモを置いていったのに、ローズは気づかず行き違いが続いて
車の事故に遭ったと思って警察に電話しようとして
部屋でタイプを打っている音にやっと気づいた
ローズは有名なオーストラリアのヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーにインタビューした
戦時中、飢えに苦しむ芸術家たちを助けるなどした
彼は言った
「兵士たちの間には憎しみなど存在しなかった
あらゆる残虐な行為は、新聞が書いたり、軍上層部の差し金で
一般市民の感情を煽動し、憎しみを掻き立てるものだった」
●10月14日
フリッツ・クライスラーの演奏を聴きに行った
あんなに美しい音楽を聴いたのは初めて
日曜の午後、ローズと海辺に行った
私は海が大好き 景色も、音も、匂いも
万博のオーストラリア館、フランス館、ベルギー館、ニュージーランド館を見た
母ローラの手紙にローズが同封した手紙には
母がたくさん食べてムクムク太ってきたと書いてあるw
「これからはけして母さんをスコーン売り場に連れて行きません」
●10月20日
ローラが路面電車から落ちて、後頭部を石畳にぶつけて入院したというローズの報告!
幸い、大した怪我ではなく、1週間ほど家で静養しただけで済んで良かった
ローズはヘンリー・フォードの伝記を書いている
後に『ヘンリー・フォード物語』として出版された
●10月22日
『長い冬』で書いた不通になった機関車を走らせようと奮闘した人に会った話
●付属資料
食物館を周って、いろんな国の食べ物を見た
日本のおもちをオリーブ油に落とすと、たちまち膨らんで丸いボールみたいになる話もある!
そのあとに気になった料理のレシピが書かれている
■
第二部 里帰りの旅日記 1931年
●はじめに アビゲイル・マクブライド
父ロジャーがローズに会ったのは10代の時
父の父が2人を引き合わせた
当時、ローズはすでに著名な作家だった
後に、父はローズの代理人・弁護士となり、個人的な相談に乗ったり
資産の管理・運営を任された
1931年、64歳のローラ、74歳のアルマンゾは
1894年に去ったデ・スメットの旅を逆向きにたどる決心をする
時はまさに大恐慌時代
2人がクルマで走った場所は、干ばつに苦しんでいた
それはほぼ40年ぶりの里帰りだった
1931年6月6日から始まり、その日あった出来事と、最後に経費が書かれている
泊まるのはいつもキャンプ場
水、ガス、電気、お風呂があるのはいいね
「ノーフォークはすてきな町だ」
●6月11日
デ・スメットに入ったが、全然見知らぬ町のような気がした
(40年後ならそうなるよね
●6月12日 マンチェスターのグレイスを訪ねる
グレイスはなんだか知らない人になってしまった気がするけれども
時々、懐かしい表情が浮かぶ 私も同様なのだろう
ネイト(夫)はいい人だが喘息がひどい
●6月13日
マンリーと2人でデ・スメットに行った
(その後も何度も訪ねて、古い知人、友人に会って話したとある
●6月14日
懐かしい家へ行き、母さんやメアリの持ち物を探したが
値打ちのありそうなものは何一つ残っていなかった
●6月15日
私とキャリーが一緒に学校へ通った道
17歳の時、マンリーと馬でドライブした道は今やハイウェイになっている
ワイルダー農地を通り過ぎる
もういない人たちが懐かしくてたまらない
父さん、母さん、メアリ、ボースト夫妻、キャップ・ガーランド(みんな先に亡くなったのか/驚
●6月18日
グレイスとネイトは2人とも病気
グレイスは糖尿で食事療法をしている
リウマチで、私は仕事を手伝ったりしなければならなかった
マンチェスターは無法の町
1人が運転免許をとると、町中で使いまわす(!
●6月20日 キーストーン
キャリーと再会
デイブ(夫)、ハロルド(前妻の子)に会う
●6月21日
ラシュモア山に登り、ワシントンの顔を彫っているのを見た
●6月22日
ドライブ
シルバン・レイク、ゲイム・ロッジ、動物園
●6月24日
高度のせいか、ローラもマンリーも耳鳴りと頭痛がひどい
●6月26日
ハイウェイはウサギの潰れた死骸だらけ↓↓↓
どこも焦げそうに暑い
しょっちゅう止まって、ネロ(愛犬)の体を冷やしてあげる
この4週間の旅の総経費は120ドル
全走行距離は4048km
■
解説 ウィリアム・アンダーソン(ローラ・インガルス・ワイルダー研究家、作家)
ローラは旅が大好きだった
1885年にアルマンゾと結婚
1年後、ローズが産まれた
1890年、干ばつで作物がとれず、一家はアルマンゾの両親が住むミネソタ州へ行く
その後、フロリダ州に移住したが、気候が合わず、デ・スメットに戻った
(フロリダなんてすごい天気が良いのに?!
1894年、一家はミズーリ州に移住
ローラは毎日のように日記をつけていた
ローラが亡くなった1957年の後、日記が見つかり
『わが家への道 ローラの旅日記』として出版された
次が『サンフランシスコからの手紙』と『里帰りの旅日記』
1902年 父の死期が迫り、ローラはデ・スメットに帰り
母とメアリーと再会したが、それが最後になった
ロッキーリッジ農場は次第に豊かになり、カンザスシティに住むローズを訪ねた
1924年 ローズは紺色のビュイックをプレゼントして、イザベルと名付け
ローラとマンリーは運転を覚えた
1925年 ローラ、ローズは、友人ヘレン・ボイルストンとカリフォルニアへの6週間のドライブ旅行に出た
1931年 ローラ、マンリーは愛犬ネロを連れてデ・スメットを訪れた
アメリカは急速にクルマが増えて、旅行者のための宿泊所キャビンも増えた
デ・スメット近くの大草原に住んでいたグレイスと夫の暮らしは貧しく、2人は健康を害していた
ローラは『パイオニア・ガール』という自伝を書いたが出版されなかった(!
『大きな森の小さな家』はほぼ完成間近
キャリーとも再会し、小さい頃の思い出を新たにした
かつて新聞社で働いていたキャリー(すごい姉妹だな!)は
姪ローズがジャーナリスト、作家として有名なのを得意に思い
ローラの成功を喜んだ
小さい家シリーズはたちまちベストセラーとなり
1938年、1939年、ローラとマンリーは再びサウス・ダコタに行き
『長い冬』『大草原の小さな町』『この楽しき日々』を書いた
■
訳者あとがき
本書の原題は『A little house traveler』(小さな家の旅人)
ローラはサンフランシスコ滞在中、異国情緒のお土産をいくつか買ってきた
中には鶴の絵がついた小旗もあった
ローラがどれほど夫思いだったか、手紙から伝わる
この手紙はまさにマンリーへのラブレターでした