ソーシャルワークの TOMORROW LAND ・・・白澤政和のブログ

ソーシャルワーカーや社会福祉士の今後を、期待をもって綴っていきます。夢のあるソーシャルワークの未来を考えましょう。

岡村先生の住んでいたマンションに行ってみた

2009年05月09日 | 社会福祉士
 師と仰ぐ岡村重夫先生が2001年12月22日に亡くなられて8年が経つ。7回忌の頃から、右田先生と相談し、『岡村理論の継承と発展』を刊行することを決め、現在多くの方々から原稿を集めている段階であるが、期限通りに集まらず、苦慮している。

 先日、梅田でこの本の編集会議があり、編集に一定の方向性ができた。そこで少し時間があったので、帰りがけに、岡村先生が長く住まれた中津の方に自然と足が向いていた。

 住んでおられた中津リバーサイドマンションのあたりは殆ど変わっていなかった。ただ、よく食事に連れて行っていただいた東洋ホテルはラマダホテルに名前を変えていた。また、中津の駅周辺については新しいホテルも建ち、様相を一変していたが、駅からマンションまでの細い町並みは昔も今もほとんど変わっていなかった。そんな変わった所と変わらない所のコントラストの大きい町である。

 先生が中津を離れ、奈良のエデンの園に引っ越しされる時、先生を車に乗せて中津からエデンの園がある奈良県の香芝までお送りした時以来の中津である。そう言えば、もう10数年以上も中津には来ていないことになる。

 そこで、先生の部屋から見渡せた淀川の堤に小1時間じっと座り、川の流れをただ眺めていた。なぜここにやってきたのかの気持ちは、すっきりと整理は出来ないが、今は岡村先生に相談や頼ることができることができず、今受けている様々な重圧や責任をどのように果たしていくのかを教えて欲しかったからではないだろうか。そんな、ぼんやりした気持ちで中津にやって来たのであろう。

 もう一方、単純な理由からやってきたのであろう。今作ろうとしている『岡村理論の継承と発展』が、タイトルのごとくの目的を達成して刊行できるかどうかに不安がよぎったからである。岡村理論を継承し、発展させていかなければならないことは分かっているが、私自身は力不足である。ただ、多くの仲間と一緒に、岡村理論を継承し、発展できたらと思っている。ほぼ書き上げた私の原稿を見直してみることにしよう。先生が生きておられた時によく言っておられた「また、グラムでなんぼの原稿を書いて」と、言われないように。

 もう一つ、岡村先生から柴田先生へと引き継いでこられた大阪市立大学の社会福祉の研究と教育を引き受けて、支えてきたであろうか、また岡村先生の元でまとまっていた関西の研究者がいまもまとめる上で十分な役割を果たしているであろうか、を一度自己点検したかったのではないかと思った。あるいは、市大の中で代々伝えられてきた伝統を受け継いだり、大学内での下の者や同僚を育て守っていく義と言ったものが薄れつつあることへの、心の整理のためにやってきたのかもしれない。大阪市立大学での残りの教員生活もそんなに時間がない。残された時間を精一杯、研究と教育に励もうと決心した。そういえば、岡村先生が『社会福祉原論』(全国社会福祉協議会)を書いたのは、70歳を過ぎてのものだったように思う。

 何となく来てみたかったことには、岡村先生から、困っていることへの答えを聞きたかったのであろう。先生からの答えは聞けなかったが、困ったときは、またこの堤に座って、我を忘れ、淀川の流れをじっと眺めるためにやってこよう。そして、自分で決定していこう。