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伊達正宗歴史館

2018-11-29 01:57:27 | 日記

                                   みちのく  伊達正宗歴史館

                                                                        〶 981-0213 宮城県松島町松島海岸

                                                                        ☎ 022-354-4131

 

                           2018.11.21

                           伊達正宗公

                                    

                         ↓  痛恨の出来事 正宗・疱瘡(ほうそう)の為、右目失明

                           修験道では幣束(へいそく)のことを梵天(ぼんてん)と呼ぶ。

                           出生のおり湯殿山(ゆどのさん)の幣束を産屋の屋根に安置させ、義姫(よしひめ)の見た夢にちなみ名が付けられた。

                                  正宗の幼名を梵天丸と言う。

                                  五歳になって痛恨の出来事が起こった。

                            疱瘡(天然痘)にかかったのである。大病であった。一命はとりとめたが右眼を失明してしまった。

                            梵天丸は、片目を失ったことにより、幼くしてその辛さ恥しさに耐えなければならなかったので有る。

                           

                          ↓  正宗の養育に決定的影響を与えたのま名僧、虎哉禅師(こさいおしょう)とお守役・片倉影綱(かかたくらかげつな)

                            父・照宗(てるむね)は梵天丸(ぼんてんまる)を愛していた。いずれは伊達十七代の家督(かとく)を継がせようと思っていた。

                                    だが、片目であるため、その心までもゆがみめじれて、秘かに心を痛めていた。

                                    そこで、当時名僧と言われた虎哉和尚(こさいおしょう)を梵天丸の師として招いた。

                                    虎哉宋乙(こさいそういつ)、美濃の人で、かつて快川紹喜(かいせんしょうき)に師事し、後に下野雲岩寺(しもつけう

                               んがんじ)住持、大虫(だいちゅう)とならんで天下の二甘露門(にかんろもん)と言われた名僧であった。

                                    また、お守役として片倉小十郎影綱(かたくらこじゅうろうかげつな)をあてた。

                                    影綱は梵天丸より十歳年上の俊才(しゅんさい)、俊才、剛直な若者であった。虎哉和尚から仏教や漢学、五山文学

                            の教養をうけるとともに、影綱を相手に梵鐘丸は、激しい武芸の修行を続けた。  

                           (幼少にして右目が傷ついていたのが画像より解る) 

                                    

                         ↓  若年時代から正宗は学問好き、文学、誌歌には特別の才能を発揮した。

                           梵天丸の非凡さをみて、輝宗は満足であった。そして虎哉和尚や相田康安(あいだこあん)らと相談して幼い

                           頃から誌歌、茶道、書道、能など文化人としての教養を身につけさせようとした。

                           十一歳の年の正月七日には、佳例(かれい)によって七草の連歌の会に出て

                                      暮わかぬ月になる夜の道すがら

                           という句を詠んでいる。

                           連歌に、そして書道に、梵天丸は天性の才をみせて、輝宗や虎哉和尚を喜ばせた。

                           

                        ↓  歳若き伊達正宗の結婚

                           天正5年(1577)十一月十五日、十一歳になった梵天丸は元服、藤次郎政宗(ふじじろうまさむね)となった。

                           天正七年(1579)冬、雪の舞う米沢城に、美しい花嫁の輿入れ行列が到着した。

                           花嫁は三春城主、田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫・迎える花婿は輝宗の世子政宗、このとき花婿十三歳、

                           花嫁十一歳。

                           内裏雛のような可憐な花嫁、花嫁の式が雪舞の城中でおごそかに行われた。

                           片目の若者も今宵は盛装で、体一ぱいに緊張を見せていた。そのりりしい若殿ぶりに家臣たちは、祝い酒に

                           ほほを染めながら政宗に期待と祝福を送っていた。

                                  

                           ↓  侵略に 立ち向かう十五歳の若者、初陣の政宗

                              天正九年(1581)五月、輝宗は魔下(きか)の兵を率いて、相馬小高城主〈そうまおだかじょうしゅ)の相馬守胤

                              (そうまもりたね)と戦った。 

                              守胤は伊達の支城を次々におとし、伊達の本領である伊達郡や志夫群まで侵し始めていた。

                              輝宗は失地回復のための反撃にでた。この時、政宗初陣。ときに十五歳だあった。

                              陣太鼓や法螺貝の響き渡る伊達領の荒野を、影綱や従弟の成実(しげざね)ら旗本勢を率い、政宗は駿馬(しゅんめ)

                                  にまたがって縦横に駆け、盛胤の軍を蹴散らした。

                              伊達の小冠者、あなどりがたしと近隣の大名たちは、改めて政宗に注目したのである。

                                                                  

                          ↓ 1584年、18歳的政宗為伊達家的當家。 為慶賀面来的小濱城主一大内定岡、曾發誓要臣服於伊達之下 :

                            領事反悔。伊達正宗大怒之下便攻打小濱城・:大内定岡經由二本松逃至會津。二本松城主一畠山義繼雖救

                            了大内更岡、卻因比敗陣而投降:且委託政宗的父親輝宗代爲調停。歸途、畠山義繼綁架輝宗逃至阿武隈湖畔。

                            輝宗大聲疾呼”和我一起攻打義繼!”、伊達的家臣們不分晝夜地攻打義繼主僕:輝宗也因此而戦亡。政宗在

                            父親的遺體前哭得死去活來。

                             

                           ↓  父の仇討   激しい人取橋の戦い

                                     

                                  

                         ↓  正宗逆心ありと訴えられた秀吉、紏命の為入浴を命じた。 第二の大危機。

                            大崎・葛西一揆に驚いた秀吉は蒲生氏郷(がもううじさと)と伊達正宗に出兵をうながした。政宗は一期鎮圧に

                            兵を宮城郡利府(りふ)に進めた。

                            この時、政宗に恨みを持つ家臣の須田伯耆(すだほうき)氏郷(うじさと)に政宗逆心ありと訴え出た。

                            政宗はこの疑いを晴らすため、単独一揆を討ち木村親子を救出したが、秀吉の疑いは解けず、急ぎ上洛せよ

                            との命令が届いた。天正十九年(1591)二月四日、政宗は京に入った。二十五歳、隻眼(せきがん)の武将伊

                            達正宗の死を決しての入洛で有った。この時政宗は死装束のいでたちで、行列の先頭には、金箔を押した磔柱

                            (はりつけばしら)をおしたてて入京したのである。

                            

                            

                                     

                           このページは、11月29日(撮影日は11月21日)にペイジ作成にに掛かったのだが、説明文を書くのに、文字が難しく、

                           ページを開くのが嫌になってしまい、閲覧者には面白くも無いページなのに、今日、12月9日になってしまいました。