「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第232回  村田麻衣子と鏡像体の行方 平川 綾真智

2019年02月02日 | 詩客
 一九一九年十一月九日にリオ・デ・ジャネイロ滞在中の詩人、堀口大學の心は唯一つの事実で占められていた。その日は、パリで活躍した詩人ギヨーム・アポリネールの一周忌だったのである。「シュルレアリスム」という言葉の産みの親であり「新精神(エスプリ・ヌーヴォ―)」の主導者としてフランス文学史上に燦然と輝く功績を残していったアポリネール。第一次世界大戦の戦地で負った傷が原因となり亡くなっていった彼の事実を改めて反芻し、その日の大學は『金色のアポロ』と題する詩篇を仕上げアポリネールを追悼したのだ。大學が初めてアポリネールのことを知ったのは、一九一五年に外交官である父に伴ってマドリッドへ赴いた時のことであった。彼は、そこでアポリネールの元恋人であるフランスの画家マリー・ローランサンと交流する機会に恵まれたのである。ローランサンは大學が詩人であることを知り《若い詩人のギイヨウム・アポリネエルね(*1)》と、まだ二十三歳だった彼に語り掛けたのだ。大學はローランサンからアポリネールとの手紙を読ませてもらったりエピソードを聞かせてもらったりしていく中で、彼の芸術観に魅了されていく。ブラジルの地で暮らし始めて以降も、アポリネールとの直接交流の機会に恵まれなかった心残りを抱きつつ大學は、パリから取り寄せた彼の原書の頁を繰り、二十世紀新精神の虜となっていったのだ。そして一九三一年に東京で彼は、次のような文章を書いている。《今なお毎年、必ず二度や三度は、「アポリネールが生きていたら!」と口惜しく思うことがある。事実、彼なき後のフランス芸壇は、その中心を失った形であり、なんとなく元気がない》《アポリネールさえ生きていたら、この沈滞は、なかったはずだと思うのは僕の思いすごしだろうか?》《先駆者としてのアポリネール、指導者としてのアポリネール、詩の実作者としてのアポリネール、美術批評家としてのアポリネール。今日アポリネールが生きていたら、どのような仕事をなしとげていたであろうか、と、こう思うだけでも僕の心は躍るのである》。アポリネールの詩篇を数多く訳し、後にはフランス近現代詩の見本帖とも言うべき訳詩集『月下の一群』を発行するなどフランス文学の潮流をいち早く取り入れていった大學。日本文学に多大な影響を与えていった彼の芸術観は、フランス語を第二の母とすることによって形成され醸成されていったのである。

  *

 フランス在住の詩人、村田麻衣子氏が二〇一七年に詩誌『て、わたし第三号』で発表した翻訳詩は、グローバル社会となった世界において文学の再考を促し新たな地平へと進めていく体温を伴う顕然たる営為であった。彼女が邦訳を手掛けたのはシリアの詩人マラム・マスリ氏の『無題』と『彼女は 裸で ときはなたれる』の二作品。マラム氏は一九六二年シリアで生まれ、ムスリム女性が他宗教信者と結婚できない法律を持つ祖国でキリスト教徒の男性と恋に落ち、家族と共に一九八二年フランスへと渡った詩人である。村田氏は彼女の詩作品について次のように述べている。《母国語であるアラブ語とともにフランス語で書かれた作品は、鮮烈。シリアというと、今まさに世界が見守る激戦地であり残虐な戦争や迫害が繰り広げられている地帯。フランスにも、安息の地を求めて多くの難民が、地中海を越え移住する。マラムは毎日のようにYouTubeなどの動画サイトでシリアの残虐な戦争の様子を見つめ、祖国の姿にこころを痛めながら詩を書いている。彼女は、戦争の被害者を、排除された人、失われたアイデンティティを求めて道端に追いやられ、社会の中をさまよう人々と定義する。日本にも、共通した姿を見つけることがあるのだが》。村田氏は自分自身もフランスで難民の友人たちと過ごし、その時間の中で共通する母国への思いや自己同一性を発見した経験を持っている。何度も咀嚼していく経験途上で巡り合ったマラム氏の戦禍を描く作品の中に、彼女は日本という母国の技術が海を越え難民と生活を共にしている姿を見つけて驚愕する。

 小さなトラックのなか
 日本のスズキというメーカーの
 名の通った車両であったのだが
 そこには死んだ女が横たわっていた
 とてもきれいに
 眠っているかのように
 あまりにも きれいに整えられた衣類

 座席の より高いところには
 彼女がどこかの店で買った
 パンが入った 袋があった
 きっと その日のうちに
 子供たちが食べおえるはずの
 ものであったのだろう
 そして、彼女の死が
 もたらした何かが
 そこには いつまでものこされた
 ままになっている

(『無題』全文)


 排除され追いやられて生きることすら許されなくなる惨劇的状況は、その場所を日常としていく一人ひとりの威厳をも奪ってしまいそうな絶望観に満ち溢れている。思わず目を背けてしまいたくなる擾乱な現実を前にして、マラム氏は悲痛な叫びと怒りが渦巻いている心と共に苛烈な光景と対峙し、ありのままを距離の中で細密に描出していく。産業進捗で繋がり合う世界を象徴している他国産の燃費の良い車両の中で、女性の死体は見つめていく者の生の証明を照らし出す。睡眠に伏しているかのような錯覚は衣服の静謐に焦点を当てさせていき、命脈を客体に呼び起こすのだ。トラック車両の中には生活を続ける者の特権である食料が、残酷なまでに日常存在の輝きを放っている。愛する子供たちのために運ぼうとした食料と生命連環の痕跡は、決して消すことなど出来はしない。車両に充溢し零れ過ぎていく時間の中で、死と併せて経過していくものは最後まで家族との生を全うしきった誇りだ。当事者としてマラム氏が描き出す悲痛な情景は、失われつつあった尊厳の確固たる奪還と証明に他ならないのだ。
 戦場から辛くも生還した者たちは、その多くが肉体や精神に取り返しが付かないほどの損害を負い、真の安息を掴み取ることは非常に困難な事実がある。日本も平和が流れ続けている表層の中で、もちろん戦地や難民と時間を共にしている。けれども、その前提条件は距離を保持しているために意識の外へと落としてしまいがちだ。村田氏は《小さなトラックのなか/日本のスズキというメーカーの/名の通った車両であったのだが》という文章に、これまで難民の友人から話されて来た実態と自己の風土が生々しく繋がる瞬間を見出す。遠く離れていた母国で生活していた過去ですらも、街に溢れる同じ車両たちを通して戦地の日常生活と密接に関わっていたのだ。難民にとって日本の車両は、祖国を逃れるための身近な手段であり方法だ。それは無事に逃れることが出来なかった難民の皆が、日本車両の中で息絶えてしまったということの裏書きでもある。翻訳された詩に美を保った尊厳の煌めきが色褪せず存在しているのは、村田氏が場に立ち会う当事者だという意識を掴んでいるからだ。寄り添い絡む時空間を認識してこそ、翻訳していく詩文は真の越境を成し遂げるのだ。
 認識を持つ自己の全体像は、家族など所属する準拠集団の存在を鏡像体とすることにより初めて獲得されていく。不明瞭で自己固有のまとまりなどが曖昧な成熟の中にあって外的統一性を持つ鏡像体として作用する者たちは、主体へと同一化を働きかけ導いていくのである。つまり主体が精神的恒常性を一時的に保ち出来上がっていった人格は、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものなのだ。この時、集団所属によって個人へと伝えられていく要素は、準拠する集団数の増加により人格個性の発達を促進させる。多集団の交差から構造的意味の内在化を変転させていく主体像は、やがて自己をも鏡像体として客観視し始め構成し直していくのである。主体は文化の社会的相互作用の場を増加させ学習していくことで、更なる鏡像体を自己という意味秩序へと変容運動させ続けていくのだ。
 日本という母国で育ちフランスの文化の中で自己の構築を再編していく村田氏は、これまでの現実秩序の在り方を新たなる社会的存在と結びつけ直し差異を持った観点から再び相対化して接近していく。シリアからの難民の友人やマラム氏の詩作品へと更新された認識を持って臨む時、彼女は日本という国で暮らす者たちに戦地で迫害されている者たちと共通する傷ついたアイデンティティを見出す。《戦争や迫害から逃れてきた彼らといると、日本は豊かな国であったがそれゆえ、わたしはまるで世間知らずみたいだなと思った》《わたしも、くたびれはてた労働のさなかにこの詩を読んだ。その時何か感覚が蘇えるようなしかしなにか癒されるような不思議な力に襲われた。戦争は起こっていないが、目に見えないものといつも戦っている。世界で唯一被爆した経験をもつわたしの生まれた国よ。誰かの傷ついてしまったアイデンティティは誰かの遺伝子に記憶されたままなので、押し込められている悲しみや思いはどこかに潜み塞ぎこんでいるのではないかと、時折思いを馳せるのである》。寡作でありながら長い間、現代詩の世界で唯一無二の存在として注目を集めている村田氏の詩の源泉が、この文章には凝縮され提示されていると言えるだろう。
 村田氏は、詩誌「詩学」二〇〇四年九月号の投稿欄において、初めて現代詩の世界に姿を現した。入選掲載された詩作品『雨』(川口晴美氏・選)は十四歳の頃に書かれた詩であり、抽象的な世界観が紡ぎ出されていて確かな将来を予見させる独特な光を放っていた。《孤独を繕う句読点を無造作に並べて/線でつなぎとめただけの街/意味のない言葉は/空白を満たし/ちからなく溢れた/(思いのほか冷たい。)》。現代社会は個人主義を推し進め続けており街という活動空間においても、その傾向は顕著である。自動車の中で個人的空間を得て公共の中を自室と共に移動し、携帯電話で極めてパーソナルなコミュニケーション・チューブを身体へと穿つことに成功した社会構成員の一人ひとりは細断化されており孤独を肥大化させている。それ故に、街の中で繋がりあう人の営みは表層的であり交わされる言葉も、もはや空虚な記号でしかない。多元的な領域からなる意味秩序として主体へと構造的に内在化され客観的な拘束力を持った現実には、虚構的な演技性すら体感させられてしまうのである。村田氏が十四歳の当時から決して難解な言葉を使用せずに本質を言い当て、日本人のアイデンティティを掴み出しアウトプットしていた事実には、改めて驚嘆させられるばかりだ。

  *

 村田麻衣子氏は長野県で生まれ、転勤族の父に伴い東北の様々な場所を巡りながら育った。家族の仲は良好であり父や母と、まるで友達のように接し暮していた。いつも外で友人たちと遊ぶ活発な子供であったが、その一方で自分の時間を敢えて確保していく部分も持っていた。客観的な視点を、幼い時期から取得していたのである。ずっと転校生だったため仲良くなった友達と必ず別れる体験を繰り返しており、その寂しさの蓄積は今でも鮮明な映像として残り続けているほどだ。やがて氏は五歳の頃にピアノを習い始め、自らの感受性を意識するようになっていく。小学三年生の頃には、吹奏楽部に入部しトランペットの音色に魅せられ芸術への思いを強く認識するようになった。村田氏の両親は芸術関係のことには興味関心を持っていなかったため、音楽という営為を皆で創造する楽しさから氏が芸術を希求していったことは同時に自己を突き詰め孤独を見つめる過程を経ていくことでもあった。その変容過程が作用したのかもしれない。氏は十歳の頃には既に、詩創作を開始していたのである。当時の詩作品は、道徳の授業で習った価値観を基盤にしたものだった。出来上がった作品は直ぐに学校の先生に見せ、他者に読んでもらうことから新たな価値観を内部へと形成していく喜びも覚えていった。詩創作は自己を成熟させていき、読む本も次第に多様化し様々な視点を形成していく。中学校では小さな哲学者のように多くを考察し、詩誌も意識するようになった。音楽も勿論、続けていき高校時代は進学校で吹奏楽部の部長を務めた。音楽演奏と詩創作を続けながら、さまざまな土地の価値観に触れ村田氏は幼少期と思春期を歩んでいったのである。
 十八歳の時に氏は、十二指腸潰瘍を患い入院する。入院中の生活は必然的に、これまでの自分の人生や価値観を振り返る時間となっっていった。様々なことが、脳裏に明滅した。人との交流などが非常に好きであり、しかし自分のことは苦手であるということ。宮澤賢治やトリスタン・ツァラ、ボリス・パステルナークが好きだということ。映画が好きだということ。海外への憧れがあるということ。人の力になりたい自分という存在を持っているということ。看護師さんの優しさに、たくさん触れていたこと、などなど。今までを俯瞰し探索していく時間は、退院してからも続いた。そして沢山の思いへの反芻と経験を胸に、氏は詩創作を続けながら看護師を目指し専門学校へと通うことを決めたのである。
 在学中は、創作世界を拡張していく様々なことに恵まれていた。特に仙台で行われた谷川俊太郎氏の講演会に参加し、日本在住の中国詩人である田原氏と出会ったことは大きかった。世界的に活躍している田原氏に詩作品を読んでもらい、評を頂くという交流が生まれたのである。田原氏に誘われステージに立った朗読会では、和合亮一氏と交流を持った。詩人たちとの交流の輪が拡がる度、人見知りな自分を実感したりもしたが、人との繋がりは自己の詩作品に確かな刺激を与えていった。この頃webを始め、地域を越えた同世代の詩人たちとの交流も始まっていった。サイトへの投稿も始め特に『poenique』や『文学極道』、『現代詩フォーラム』などの場で、現実認識をスーパーフラットに再構築していく氏の作品は評判を呼び一目置かれる存在となっていった。詩誌の投稿欄でも活躍し続け、それらの体験は全て氏の多角的な価値観に一層の奥行を付与していったのである。
 やがて看護師として働くようになった村田氏は、生死に触れる多くの体験をしていく。職場での体験は、自己自身とアイデンティティについて重層的に考察していく更なる起因となった。特に小児科の新生児病棟の救急で働いた三年間は、綺麗ごとでは済まされない生命の過酷な現実が日常に流れており、ずっと深淵なる自己の切断面を突かれ続けていた。無論、詩作品も更なる変革を遂げていく。生きている営為を消費社会に置く自分自身へと徹底的な客観視を投射していく当時の村田氏の作品は、現存在をも新たなる段階で掴んでおり他との比較を絶していた。もちろん朗読方面の活動も続けており、長野県で働いていた時は、詩人であり朗読家であるGOKU氏たちと共に氏は意欲的に場を拡張していった。
 ある日のことだ。ふと立ち止まってみたところ、いつの間にか看護師として働き八年が経過していた。改めて様々な価値観を通して自己を振り返り見つめ直してみると、以前から興味があったフランスで暮らしてみたいという思いが胸の中で膨らみ質量を得て来ていることを感じた。その焦がれていく思いは確かなものであり、信じるに値するものがあった。子供の頃から、ずっと様々な場所を転々として暮らして来た自分の価値観が新たな場所を望んでいるような気がした。詩創作を続けて来た自己にとって、母語とは違う言語の文化は光り輝いて見えた。一つひとつを考察していくと、不思議な感慨すら抱いた。人生は、たった一度きりだ。そうして村田氏は、フランスへと渡り生活することを決めたのである。

 *

 東西冷戦構造瓦解後の「大きな物語」が失墜したグローバル時代の中で、それまで欧米中心であった言語芸術の世界は変容を遂げ続けている。アジア、アフリカ、南米、北欧、東欧などのいわゆる周辺地域は「他者」の表象言説と共にクローズアップされ横断し細断化され、相互に取り込みあって多極化を進め止むことが無い。村田氏は現在、フランスにてアニメやアイドル、俳句や忍者など日本文化の人気を体感しながら暮らし、母国である日本で養った価値観を反芻し、捉え直していると言う。短い言葉の綴りや「沈黙」という西欧文化が憧れとして探求し未だ掴めないでいるものを、自分が日本人として継承して来ていることに気付くなど、毎日は発見の連続だ。「日本語で詩を書く」という今まで気にも留めなかったことが、どんなに醇美なことであるかも分かって来た。氏が日本語で詩を書く時、それは母国への郷愁を抱いていく瞬間でもある。そしてフランスにいるからこそ見えてきた日本の表象を、詩創作を通して消費社会で疲弊している自己自身と共に眼差していくことでもある。最近の氏の作品は年齢を重ねていくことで変化していく役割に透徹な身体を突き付け、主体と歴史の中で宙吊りになる鏡像体を浮き彫りにしていっている。『QUARTETTE第5号』(澪標・二〇一八年八月二日発行)に発表された詩作品『*Prononce』は、愛という産出される以前から肉体を構成して来た体験秩序を総体の中に踏み出していく準拠概念への受諾だ。体験や行為の無数の可能性を縮減反復し、選んでいく拠り所が諸可能性にも光を当てて、眼前の景色に具現を宿す。

    たくましく半球先に、影をおとして
  いく子達 逃れたかった陽光から
  その先に、その大陸を越えられないで
  / まじりあいもしない
  が 喉の渇くときにはいつも思い出すんだ

  わたしがからだに宿したことのある刻印
  みたいなその背景よ。
   わたしが、うまれたときには わたし
  のからだじゅうが、わたしだけのもので
  あった からだじゅうにこどもたちを
  宿してみたい!
  騒がしく、いとおしく そうして、やま
  ない雨の中から奪い取った 仮面。誰?と

(『*Prononce』部分)


 この世界には実現される体験や行為よりも遥かに多くの可能性が常に存在しており、それらの複雑性を縮減し選択することで人は社会的生存を成している。選択遂行の際に実際の機能を担い、複雑性縮減を可能としていくものこそが秩序化を前提とした社会内での「意味」である。社会的「意味」は、自分という存在が準拠している集団同士の結節点に生まれるものだ。家族や国という強大な準拠集団を距離を持って眺めた時に、見えてくるものは言語と認知の様式によって成立し発話していた自己という概念の結節点に浮かぶレッテルでしかない。主体や客体が染まらずに本当の自己であった時は生まれた瞬間だけであり、すぐにも言語による価値基準が無意識の内に存在を侵食し構成し続けてしまうのだ。国境を越え眼差していく先で各々の存在が消費し合い、それでも残り輝くのは自分という極致である名前だ。細断化され家族としての向き合いを進めて行く確かな芯のみの自己自身こそが、過去の縮減を再構成して未来をも創り出していくのである。そして知るのだ。愛の結晶として佇立していく自身を育み、縮減の中で進めてきたものは存在の中で反響していく発音なのだと。
 現代社会はwebや交通手段の発達により、地球の一隅で起きた事件が直ちに全世界へと影響を与えていく新たなる局面へと立ち至っている。SNSで「他者」の表象圏域から直接、声が挙げられ聞き入ることも可能な時代にあり価値観は一層広く多様化し、だからこそ人間は改めて文化へと立ち返っていく。幼少期から様々な土地を渡り生活を続けて、独自の視点と価値観を養っていった村田氏が差し出す手鏡に映し出された日本の姿は実に鋭利だ。堀口大學がフランス文学において、イタリア出身のポーランド人である詩人ギヨーム・アポリネールを重要視したように多様な価値観の混交は文化進捗を確かなまでに推し進めていく。だからこそ還元され発見されていく日本文学の進捗は、豊穣なものとなり続けるのである。フランス語を第二の母とした氏の作品群は、もはや計り知れない芸術観と文化の中での飛翔だ。断言しよう。フランスにて多角的な視点を逸らさずに完遂し、鏡像体を示していく村田麻衣子氏が提示する詩作品は新たな日本文学を発見し牽引する。


*1:大正六年四月号『新潮』に掲載された回想『キュビズムの女神』(著:堀口大學)より。

■参考文献:
『アポリネール詩集』訳:堀口大學 (新潮文庫、一九五四年)
『文字と組織の世界史-新しい「比較文明史」のスケッチ』著:鈴木董(山川出版社、二〇一八年)
『ジンメル社会学』著:阿閉吉男(御茶の水書房、一九七九年)