sibasenn気ままな旅日記&日常のつぶやき

東海道53次ウォークや気ままなバックパッカーの旅日記を写真もまじえて報告&日常のつぶやき

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その6

2018-10-23 15:57:18 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
昼食が終わって、次に案内された場所
ここでもパスポートの提示を求められました。
何だ、この厳重な警戒は?
緊張が走る。
でも入口を入ってすぐのところにいた犬が、
吠えるどころか私にまとわりついてきました。
私は犬が苦手なのですが、うれしくなって優しく撫でてあげました。
ちょっと気持ちが和らぎました。

さて、この建物の上の方に、なにやら電線のようなものが見えます。

もっと近づいてみました。
伸びた木々で見えにくいかもしれませんが、電線どころかもっと大きなもの。
一体何だろう?

どでかいものが現れました。
みなさんはなんだと思いますか?

ガイドが教えてくれました。

なんと米ソ冷戦時代、
アメリカのミサイルからチェルノブイリ原発を守るために設けられた
ミサイル感知器だったのです。
そういえば、原発従事者の街、プリピャチも地図にはなかったとか。
米ソ冷戦の名残をこんな身近に感じるとは。

実は、この上は渡って歩けるそうです。
もちろん寒い冬でしたし、私にはそんな勇気もなかったので
ただながめるだけでしたが。

今回はここまで。
次はチェルノブイリ原発事故に関する映像で必ずでてくる幼稚園です。

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その5

2018-10-22 20:40:55 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
さて昼食前に案内された場所
私が言葉を失うほどに衝撃を受けた場所

まず目にとびこんできたのは、このモニュメント。
ラッパを吹く天使のモニュメント
ネットで調べたこと〜「ラッパを吹く天使」のモニュメント〜
「チェルノブイリ原発事故は、聖書ヨハネ黙示録のラッパ吹きの章に
すでに書かれていたとのエピソードに由来する」とのこと

続いて目の前に、なにやら標識みたいなものがたくさんあらわれる。

もっと近づいて見ると

白地に黒いふちどり、黒い字で何かが書いてある。
C.から書いてあるので、コミュニティのC、村の名前か?

裏側にまわってみる。

わかりやすくする為に、大きく拡大してみると

今度は、黒地に白でふちどり、
表と同じ文字が白で書いてあるが、みんな赤いスラッシュがしてある。

ガイドの説明によると、原発事故により消滅した村の名前だとわかる。

原発事故により「消えた村」、その数なんと458
ウクライナ99、その北にあるベラルーシが357
チェルノブイリから16キロしか離れていないベラルーシ
原発事故が起こった時、風は南から北に吹いていたので
もっとも被害を受けたのがベラルーシということです。
なお今回の旅では、ビザ取得が必要なベラルーシには行けなかったのが残念。

私はこれを目にした時、言葉を失った。
自分たちが住んでいた土地から追い出されたのである。
あたりまえの生活が奪われ、家族との暮らしができなくなるということ。
そんなこと日本では考えられない?
いや福島はどうなんだろうか?
こんなことが頭の中でぐるぐるとかけめぐった。

昼食はこの近くにあるレストランで。
ランチ代はツアー料金に含まれている。

さて次は米ソ冷戦時代を思い出させてくれる場所に案内します。
ではまた、つづく。


チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その4

2018-10-21 17:15:43 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
民家に続いて、次に案内されたのは、2つの宗教施設です。

一つ目はシナゴーク
ユダヤ人のコミュニティの場であり、教会的な宗教施設でもあります。
ご覧のとおり、30年経っているとはいえ、
外見的にはしっかりしているように見えます。
でも中に足を一歩踏み入れると、
本当に建物の中はくちはてていました。

続いて2つ目の宗教施設、協会に案内されました。

色鮮やかできれいですよね。
今も使われているのかと見間違うばかりです。
そう思って中に入ろうとすると

鍵で閉ざされていました。
もちろん牧師さんも中には入れません。
倉庫のような建物の壁は剥がれ落ちてボロボロ。
釣鐘も垂れ下がったまま。

そしていよいよ私が言葉を失うほどに衝撃を受けた場所に案内されるのですが、

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その3

2018-10-19 20:09:52 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
30キロ圏内でパスポート審査を受けて、いよいよチェルノブイリの中に入った。
少し緊張が走る。
まず最初に案内されたある建物の前でバスから降りた。

草木はぼうぼうだが、建物は頑丈そうにみえる。
1959年に建造された村のカルチャーセンターだとガイドから教えられた。
中に入ってみてびっくり!
講堂らしい室内の床は抜け落ちている。
踏み外さないように気をつけながら写真を撮る。

いくつかある小さな別室はご覧のとおりの状態。

あの事故から30年、ツアー客以外はだれも足を踏み入れることができない。
荒れ放題のままである。

衝撃を抱えながらバスに乗る。次の目的地に向かうまでのバスの中から見える景色にも驚く。
次々と目に飛び込んでくる民家。もちろんだれも住んでいない。


人が生活していない家は荒れると、昔から言われている。
そのとおりの光景がここにある。
だがよく考えてみよう。これは村人たちが選んだ結果ではない。
あの原発事故さえなかったら、多少は民家や建物は古くなっても、それなりに手入れもするだろう。
草木だって30年だから大きくなるのは当たり前としても、のび放題ということはなかったであろう。
どんなにか手入れしたかっただろう。したくてもできなかったのである。
村人たちの辛い気持ちに想いを寄せると、悲しいやら腹立たしいやら。

この光景は写真に収めて、いろんな人に見てもらいたい。
いや、福島原発事故があった日本だからこそ、見なければいけない。
そして考えなければいけない。
ささやかだけども、日本に帰って知らせることが私の役割なんだと。

そんなことを考えながら、バスは次の目的地に向かう。

つづく

チェルノブイリ原発事故から30年目の実相 その2

2018-10-18 11:07:30 | チェルノブイリ原発事故から30年目の実相
2016年12月9日朝8時、ウクライナ首都キエフの中心にある広場に集合。

チェルノブイリ原発事故ツアーは、2010年12月21日から始まった。ウクライナ政府が原発事故付近への立ち入りを正式に認めたことによる。私が利用したのは上記の会社だったが、他にもツアーを催している会社があるようだ。
今日のツアー参加者は私たち2名の他に運転手とガイド含め全部で10名。受付の時に、ガイガーカウンター(放射線量測定器)をレンタルする。なお測定器の値は0.1μ(マイクロシーベルト)であった。

8時15分にバスは出発。キエフから北に135キロ、バスで約2時間かかる。

バスの中では、チェルノブイリ原発事故に関わる映像が流れさていた。また誓約書にもサインさせられた。いわゆる被曝したとしても一切の責任を負わない、自己責任という内容らしい。
途中のトイレ休憩を挟んで約2時間、原発事故から30キロ地点に着いた。するとここで全員バスからおろされた。
(上記の写真は私が撮ったものではなく、ネット上から拝借)

ここでパスポート審査を受けた。立ち入りが厳重にチェックされている。一瞬緊張が走る。
再びバスに乗る、整備されたまっすぐな道路を走る。雪は降っていなかったが、道路の脇には残っていた。
そうそう、レンタルした測定器は、バスの中でもなんの反応も示さなかったので、壊れているのだろうくらいにしか思っていなかった。

つづく