正しい仏法とは日蓮正宗に伝えられています。仏教に関して知識のない方は、仏教はどれでも同じであるという考えをお持ちと思います。仏教に関しては、浅はかな我見で安易に判断できないものがあります。好き嫌いで判断することは言語道断です。仏教を説く宗旨を決めるには、自分自身の人生に大きな影響をもたらします。
「正しい仏法とは」といわれると何を根拠にし、仏法を正しく計る物差しが解らないのが世間では当たり前でしょう。その物差しがないところには、それまでに経験してきた人生の物差しや周囲の人の意見を拠り所に判断する以外にないと思います。仏様はこの事を厳しく慎むように仰せです。あくまでも仏様である釈尊が説かれた仏典である経典を拠り所とし、経典の筋道に従って判断していくことを御指南です。故に「依法不依人」ということであります。
更に法華経『如来神力品第二十一』に、
「如来の滅後に於て 仏の所説の経の因縁及び 次第を知って 義に随って実の如く説かん」(法華経516)
と説かれるように、仏様が仰せになる本当の意義に随って、真実を説かれた仏法を選び、それを信じなければいけません。多くの宗派は、この事を無視しております。
世の中に氾濫する、全ての仏教各宗派は、己の宗派が一番正しいと主張しているのが現実です。そのために多くの仏教に関する宗派が雑乱しています。この原因は、仏法の筋道に依らず先人である僧侶という人師に重きをおくところから来ています。仏法に関して知識のない人には、世間に名声高き僧侶が説く教えに疑う予知もなく鵜呑みにしているのが当然でしょう。僧侶が振る舞う神秘的な光景と雰囲気に酔いしれてしまうところに問題があります。特に間違った仏法を説く邪師である僧侶に心を許しますと大変なことになります。一度、心に浸透した教えは取り除くことが困難です。この点に気を付けて正しい仏法を判断していかなければなりません。『如説修行抄』に、
「されば国中の諸学者等、仏法をあらあらまな(学)ぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。四節四季取り取りに替はれり。夏はあたヽかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓成る。春種子を下して秋菓を取るべし。秋種子を下して春菓実を取らんに豈取らるべけんや。極寒の時は厚き衣は用なり、極熱の夏はなにかせん。涼風は夏の用なり、冬はなにかせん。仏法も亦是くの如し。小乗の法流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり。然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり」(御書672)
と仰せのように、「正しい仏法とは」その時代々々によって修行の内容や尊崇する本尊、教えが異なります。そして教えを賜る「師匠」も変わります。世間一般の方は知る予知もありません。「正しい仏法とは」今現在末法時代において、釈尊の法華経文上の仏法ではなく「法華経の文底にある下種仏法」です。つまり末法時代の正しい師匠である日蓮大聖人が説かれる教えに随順することです。この教えに従って信心して行くところに正しい仏法があります。仏教や仏法は全て同じであるとお考えの方は直ちに改め、正しい仏法を説いている日蓮正宗に入信され、不動の幸福境界を築きましょう。
釈尊が説かれた経典は、五千七千といわれる膨大な数にのぼります。家庭を持ち仕事を持つ方は、到底、五千七千という経典を全て読み切ることは不可能です。まして漢文体で書かれていますので不可能でしょう。そのために、その時代その時代に、正しい仏法をお説になられる正師が居られるのです。その正師について仏法を学ぶことが大事です。その正しい仏法を説かれる正師が日蓮大聖人であり、大聖人の仏法を正しく受け継がれている但お一人の方が「唯授一人の御法主上人猊下」であります。御法主上人猊下の仰せになる御指南を信じ、正しい仏法を理解していくことが大事です。
日蓮正宗の寺院に参詣されることで「正しい仏法」を学ぶことが出来ます。
釈尊滅後の正法時代について日蓮大聖人は『新池御書』に、
「仏教は仏滅度後、正法一千年が間は天竺(てんじく)にとゞ(留)まりて余国にわたらず」(御書1364)
と仰せであり、中国や日本には仏教は伝わらず、天竺であるインドにおいて正法の千年間、仏様である釈尊が説かれた純粋な仏法が止まったという時代です。それが「正法時代」です。『撰時抄』に、
「夫(それ)仏の滅後二月十六日よりは正法の始めなり」(御書839)
と御指南のように、釈尊がお亡くなりになられた翌日の二月十六日からが、正法時代のはじまりであると仰せです。インドでは釈尊が説かれた仏教が正しく伝わり、修行も正しく実践されたのであります。
『衆生心身御書』に、
「仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つにわ(分)かつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ。法華経をばかたはし(片端)計りかける論師もあり、又つやつや申しい(出)ださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には、少分は仏説にに(似)たれども、多分をあやま(誤)りあり。あやまりなくして而もたら(足)ざるは迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり」(御書1213)
と御教示であります。正法一千年でも二つに分かれ、はじめの五百年を解脱堅固(げだつけんご)といい、智慧を得て悟りを開く者が多い時代です。小乗経がひろまり迦葉(かしょう)や阿難(あなん)がひろめました。小乗経は自分だけの修行で、他人のことは一切考えない修行です。現在でもインドや日本にも小乗経はあり、修行している人がいますが時代錯誤です。小乗経を修行する時はこの正法時代のはじめ五百年間だけであります。それが過ぎてしまえば違う経典を用いて修行をしなければ御利益がありません。つまり、今現在で小乗経を修行しても御利益はなく、かえって身心を害する結果になります。
小乗経とは、戒律を守ったり食事を抜く断食や乞食行、動物や虫を殺さないという殺生をしないこと。肉を食べてはいけないという厳しい制限があります。今現在では釈尊も説かれるように無意味です。しかし世間で僧侶の修行は、未だに小乗経を行っていると思い込んでいる人が大変多いです。如何に世間では、仏教に対する間違った認識がなされているかを物語っています。
次の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご)といい、禅定の修行が広く行なわれる時代です。権大乗経がひろめられ馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)・無著(むじゃく)・天親(てんじん)等がひろめました。この時代は、小乗経より一つ進んだ経典を用いて修行する時代です。小乗経は自分個人のことだけを考えるのに対し、大乗経は周りの人のことも考えながら、多くの人を救い修行する教えです。それが権大乗経で実大乗経となる法華経に対する言葉です。
権大乗経は阿弥陀経や大日経などであり、日本にも存在する浄土宗や浄土真宗、真言宗や禅宗などが依経とする経典を修行する時代です。つまり今現在でも修行しいる宗派がありますが、この五百年間にしか御利益のない経典です。今末法時代では、当然御利益はありません。実大乗経の法華経の文底下種仏法である南無妙法蓮華経でなければ御利益はありません。
正法時代は、釈尊が説かれた教えが正しく伝えられ、更に実践修行も正しく行われた時代であります。
日蓮大聖人は『撰時抄』に、
「像法に入って一十五年と申せしに、仏法東に流れて漢土に入りにき。像法の前五百年の内、始めの一百余年が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論(じょうろん)していまだ事定まらず」(御書840)
と像法時代に入り、インドから漢土である中国に仏教が伝えられた様子を仰せです。『上行菩薩結要付囑口伝』に、
「像法に入って四百余年あって、日本国へ百済国(くだらこく)より一切経並びに釈尊の木像僧尼等を渡す。梁(りょう)の末、陳(ちん)の始めに相当たる、日本国には神武天皇より第三十代欽明天皇の御宇(ぎょう)なり」(御書944)
と御教示のように、像法時代に入ってから四百年余りして、日本に仏教が渡ってきました。像法時代も正法時代のように一千年間続く時代です。像法時代も前半期と後半期に分かれ、はじめの五百年間を読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)といい経典を読誦し、聴聞することが広く行なわれる時代です。
次の五百年間が多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)といい寺院・仏塔の建立が広く行なわれる時代です。
『三大秘法抄』に、
「正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり。像法一千年には法華経の迹門機感相応せり。末法の始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて、只寿量の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり」(御書1594)
と御指南のように、像法時代は「法華経の前半十四品迹門」を修行するときです。正法時代に行われた小乗経や権大乗経という修行では御利益がありません。
像法時代が過ぎて、末法万年といわれる末法時代に入りますと、法華経の中でも「如来寿量品第十六」をもって修行するのであります。像法時代ではない、現代末法時代は法華経の「如来寿量品第十六」に隠された御題目の南無妙法蓮華経を修行するときであります。
『南部六郎三郎殿御返事』に、
「像法に入って五百年に天台大師漢土に出現して、南北の邪義を破失して正義を立てたまふ。所謂教門の五時・観門の一念三千是なり。国を挙げて小釈迦と号す。然りと雖も円定・円慧に於ては之を弘宣(ぐせん)して、円戒は未だ之を弘めず。仏滅後一千八百年に入って日本の伝教大師世に出現して、欽明より已来(このかた)二百余年の間六宗の邪義之を破失す。其の上天台の未だ弘めたまはざる円頓(えんどん)戒之を弘宣したまふ。所謂叡山円頓の大戒是なり」(御書683)
と仰せのように、像法時代の正しい御僧侶は、漢土である中国の天台大師と日本における伝教大師最澄です。法華経の迹門を用いて人々に幸せをもたらし、法華経の迹門を修行することで成仏したのであります。インドの釈尊が説かれた如く修行を実践され、末法に流布される三大秘法を恋い焦がれながら正法を流布した正師です。
この時代、像法時代は真言宗の開祖空海も出現するときです。空海は、釈尊の遺言である法華経の教えに背き、中国から邪義邪説である「密教」を日本に伝えました。「密教」は釈尊の法華経に対抗するために後生の人師が、名聞名利のうえから作り上げた邪説です。法盗人化し中国で天台の一念三千を取り入れ、無知な人々を神秘的で幻想的な雰囲気に酔わせ、世の中に弘め出来上がった間違った仏教です。
像法時代は、中国の天台大師・妙楽大師と日本の伝教大師が正師であり、法華経の迹門をもって修行をする時代であります。
末法時代は、闘諍堅固(とうじょうけんご)といわれ釈尊の仏法が衰え、互いに仏教同士が争う時代です。正法時代と像法時代が過ぎた後に到来するのが末法時代です。
末法時代は、釈尊の仏法では救われない本未有善の人々が生まれる時代です。末法は釈尊在世と正法時代や像法時代と異なり、人々の命が濁り汚れ、正直さや素直さが薄れるときです。釈尊の仏法はある程度、正直さや素直さと心が綺麗な人に効果がありましたが、末法といわれる現代は、心が複雑に曲がり正直さや素直さが欠如し、他人に対して反抗心が強盛になる時です。そのために、釈尊の仏法ではなく、末法時代に一番相応しい仏法でなければいけません。釈尊は『法華経薬王品』に、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」(法華経539)
と説かれるように、末法時代に相応しい仏法が弘ることを予言されております。
末法に相応しい仏法とは、釈尊が上行菩薩である日蓮大聖人に付嘱した秘伝であり『御義口伝』に、
「今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」(御書1732)
と仰せです。正法千年・像法千年と違い、末法では御本尊様に御題目を唱える修行が一万年続くという御指南です。釈尊から付嘱された秘伝が、御題目の南無妙法蓮華経であります。この御題目を唱える修行が末法時代に一番相応しいのです。そして折伏をして、末法時代に相応しくない仏法を正していく時でもあります。法華経本門文底下種の南無妙法蓮華経以外の修行は全て無意味です。小乗経や権大乗経では、正法誹謗という業を背負い悪因を積み地獄に堕ちます。悩みや迷いの病を治す、薬の効力が弱いために、強力な薬を末法時代で新たに弘めなければなりません。その強力な薬が御題目の南無妙法蓮華経です。御本尊様にひたすら唱えることで迷いや悩みが解消されます。他宗派を信仰していて御利益がないと歎いておられる方は、仏法の薬の効力が弱っていますので、いち早く今までの信仰を止め、日蓮正宗法華講に入講され信心することをお勧めします。
『上野殿御返事』に、
「末法の始めの五百年に、法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は、仏説なりとも用ゆべからず」(御書1359)
と御指南のように、御題目の南無妙法蓮華経を唱える以外の仏説は、用いていけないと仰せです。つまり、御題目以外の仏法は薬が弱いために効き目が全くないということであります。
『妙法比丘尼御返事』に、
「末法に入りて法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪上(そうじょう)の土よりも少なしと説かれたり」(御書1268)
と仰せの如くに、世の中は法華経を信じず、法華経よりも効力が弱い経典を修行している宗派が殆どであります。そのために地獄に堕ちる人は大地微塵よりも多く、法華経を信じ御題目を唱える日蓮正宗の人は、爪の上の土よりも少ないと大聖人が仰せになられたのであります。
末法時代は、様々な宗教や仏教が氾濫する時代です。釈尊がすでに経典で予言されていたことが、現実になっているのであります。そして末法においての正しい修行方法も上行菩薩である日蓮大聖人に全てを付嘱され、日蓮大聖人が仰せになる御指南を身に対して行くところに、人生の迷いや悩みを全て払拭させることが出来ると、釈尊は言い残されたのであります。
その教えは日蓮正宗の寺院で、末法万年といわれる未来まで語り継がれるのであります。末法時代の修行は、御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱える時です。
日蓮大聖人は『寂日房御書』に、
「夫(それ)人身をう(受)くる事はまれなり。已(すで)にまれなる人身をうけたり。又あ(値)ひがた(難)きは仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。」(御書1393)
と、人として生まれることは非常に難しく稀であり、人として生まれた上に、正しい真実の仏法に巡りあえることは、更に難しいという御指南です。人間として生きていることが当然の様に思っている私達ですが、確率が非常に低く珍しいことなのであります。人として生を受けられたことにまず感謝し、更に値い難き正法に縁したことを御本尊様に御報恩申し上げることが大事です。
『法華題目抄』に、
「さればこの経に値ひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優曇華(うどんげ)、無量無辺劫に一度値(あ)ふなる一眼の亀にもたとへたり。大地の上に針を立てゝ、大梵天王宮より芥子(けし)をな(投)ぐるに、針のさきに芥子のつらぬ(貫)かれたるよりも、法華経の題目に値ふことはかたし。此の須弥山(しゅみせん)に針を立てゝ、かの須弥山より大風つよく吹く日、いと(糸)をわたさんに、いた(至)りてはり(針)の穴にいとのさき(先)のいりたらんよりも、法華経の題目に値ひ奉る事はかたし」(御書355)
と御指南のように、法華経の御題目つまり御本尊様に値い難いことを仰せです。人間社会には、多くの宗教や仏教があります。その中で真実の仏法である御題目の南無妙法蓮華経に値うことは、宝くじの一等が当たるよりも更に確率的に難しいのであります。更に一生涯正しい仏法を貫く人も稀であります。稀であるだけに、本物の仏法であることを裏付け証明しています。
まだ日蓮正宗を信心していない方や信心していても一生懸命でない方は、今一度、真実の仏法に値う難しさと値えた歓び、有り難さを実感され、御本尊様に御題目を唱えて信心しましょう。
信心を生活の中に活かすことで、真実の仏法の有り難さが解るでしょう。瞬時に移り変わる世の中に順応し、逆境や突然の苦悩に左右されない人格を作り上げることが出来ます。それが真実の仏法です。真実の仏法とは、宗祖日蓮大聖人が説かれる教えであり、大聖人の教えを濁すことなく日蓮正宗に七百年前から伝えられています。邪な仏法が横行するために、真実の仏法はその影に隠れてしまい人間に生まれても出会うことが難しくなっています。
値い難き仏法にあえる因縁とは、先の『寂日房御書』に、「まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり」と仰せのように、生まれる以前、過去十万億の諸仏に供養した功徳からであります。生まれてくる過去世からの深い深い仏様との繋がりがあり、正しい仏法を世の中に弘める尊い使命があります。これは釈尊初発心の弟子である地涌の菩薩の眷属で、上行菩薩である日蓮大聖人を上首とし、縁ある方々に値うことの非常に難しい仏法を伝え弘めることです。
今世でも過去世の御利益に甘んじることなく、正しい仏法に値えた歓びをもって信心に精進することが大事です。未来の生まれる先は、今世における御本尊様に対する信心に依って全てが決まります。毎日の勤行唱題と寺院参詣をもって感謝していきましょう。
人間は生きていれば「不安」が付き物です。新しい人生の出発となる学校や仕事、今まで経験したことのない事へ挑戦するときは「不安」が生まれます。
「不安」には、また自分自身を意識しすぎ、周りの人と比較し劣等感を持つ不安、未来の仕事や生活に絶望を感じる不安など、人の性格や住んでいる環境によって様々です。なかには楽観的な人で「不安」が生まれない人もいます。「不安」とは安心できないことです。「不安」により人生の明暗を分けます。
「不安」という心の働きは、精神のバランスが乱れる時に起こります。つまり、落ち着きや冷静さという気持ちの安定が損なわれた時、楽しい出来事を失ったときです。「不安」の度合いも様々です。見方を変えると「不安」は一種の人間に具わった、有り難い防衛本能でもあります。
「不安」という心の働きがなかったならば危険です。「不安」とは善知識であるプラス思考で考えた場合、用心深さに繋がり安定しない事柄には手を付けず、心の準備を万端にしなさいという本能的警告と考えることが出来ます。
反対にマイナス思考になりますと、対人恐怖症や未来に希望が持てない心の病になります。考えすぎて不眠症にかかったり、精神的な病を誘発させる原因を含んでいます。心に「不安」が生まれたときの気持ちのあり方と言動を十分に誡める必要があります。「不安」なとき、思ったことを咄嗟(とっさ)に出さず、考える余裕を気持ちにつくることが大切です。そして心の中にストレスを溜め込まないことが不安解消に繋がります。心の「不安」は御題目を声に出すことで解消されます。
「不安」という心の要素は、考え次第で人生を有意義にする秘訣を有しています。人生の不安を取り除く方法は、特に根元から取り除くには、日蓮正宗の信心しかありません。御本尊様に御題目を唱えることです。御題目を唱えることで、不安定な気持ちを落ち着け、身口意の三業を調えることが出来ます。つまり衝動的な言動を防ぎます。
「不安」は一時的、完全に忘れ気持ちを違う方に向けることが大事です。一度「不安」な状態から解放されて、新たに考え直した場合スムーズに行くことがあります。「不安」が襲ってきたときは、考え過ぎや孤独にならないように注意し、「不安」に意識や集中力を注がないことが必要でしょう。
場合によって、「不安」の度合いが強すぎると、正常な精神状態が麻痺し、「不安」によって発生した脳内からのストレスホルモンにより脳の神経回路が侵され、被害妄想的な言動を顕露する事があります。一つの精神病です。現実と非現実的な違いにけじめが付かなくなるときがあります。この「不安」を払拭させる要素は「歓喜」です。歓喜を失うと「不安」は増大します。
「不安」によって生まれる脳内で発生した物質は、体の自律神経を混乱させる作用があります。この作用を止めるには、「歓喜」が特効薬です。御題目を唱えたときの「歓喜」は、脳内から様々な自然治癒力を蘇らせ、脳内の悪知識に依って汚染された不安分子を中和し、更に楽しい気分にし「歓喜」に満ちていきます。これが御本尊様に御題目を唱えるときに働く作用です。脳の神経回路が麻痺している状態を回避し、正常な状態へと戻します。
何気ない日蓮正宗の修行である勤行唱題には、御本尊様からの不思議な働きが存在するのであります。人生の不安を取り除く方法は、日蓮正宗の「信心」しかありません。人生に不安が生まれたときは、寺院に参詣し唱題をしましょう。