大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

ひょうたくれ~耳を傾けなされ芸妓大吉~104

2012年06月16日 | ひょうたくれ~耳を傾けなされ~
 橋田の芸妓金次が血相を変えて、三船屋の板場の脇の控えの間にやって来た。座敷に出ている芸妓を待つ仕舞いっ子やひとり立ちしている芸妓に付き従った女中などが、そこで刻(とき)を潰しているのだ。
 控えの間は、板場とは仕切りがない為、若い娘たちにとって、やはり若い板前や追い回しとの会話も楽しいらしく、笑い声が上がっていた。そこに金次が乱暴に入って来たものだから、仕舞いっ子たちは瞬時に顔色を失った。
 「ちょいと、直ぐに橋田に戻って、お母さんに来て貰っておくれな」。
 「お母さんですか」。
 「ああ、三味も持って来て貰うんだよ」。
 お母さんはお筆である。三味と共に三船屋に連れて来いと言われた仕舞いっ子は、事態を飲み込めずに目を白黒させていた。
 「良いから、早くお行きな」。
 「どうしたい金次」。
 平太郎が声を掛けると、金次は涙目で、大吉が三味も踊りも唄も何も出来ずに、座臥白けてしまったと訴える。
 「んじゃ、橋田の女将さんに座敷に出て貰おうってか」。
 「だって、わっちひとりじゃどうにも出来ないよ」。
 「お前ぇ、それでも辰巳の姐さんけ。お前ぇの芸で座を持たせたらどうなんでい」。
 「だって、そうしたら、誰が酌をするんだえ」。
 「酌って…。そのくれえはあの三日月だって出来るだろうよ」。
 とうとう金次の目から、涙が溢れ出した。
 「お前さん。言い過ぎだえ」。
 丁度膳を戻しに来た音江である。
 「乙丸姐さん」。
 思わず音江にしがみ付く金次。
 「これ金次、泣いたら化粧が剥げちまうだろう。お前も辰巳なら、しっかりおし」。
 「だって、わっち、こんなお座敷は初めてさ」。
 泣いていたって始まらない。金次がここにいる間は、客の相手は大吉だけだ。 
 「お前さん。橋田までお母さんを呼び行ってたら、小半時じゃ済まないよ」。
 音江は、平太郎に目頭を合わせた。
 「分かったよ。お前ぇが助けてやんな。ただし、いっぺん切りだぜ」。
 「あい。おかたじけ」。
 拗ねたような顔付きの平太郎に、音江はにっこりと微笑むと、金次の涙を手巾で拭い、「金次、行くよ。しっかりとおし」と、胸を叩いた。
 「三船屋の若女将にございます」。
 三つ指を着く音江の知った顔であった。
 「おや」。
 後ろの金次の赤い目に、全てを察したその客は、余計な事は言わず、連れに、今夜は三船屋の若女将が自慢の三味を披露してくれるようだと告げる。
 「ほう、三船屋さんの若女将は、三味が得意なんで」。
 「なあに、そこいらの芸妓にゃ引けを取りませんよ」。
 見れば、亭主の平太郎が言っていた三日月は、ちょこまかと動いているように見えなくもないが、右の物を左に、左の物を右に寄せ代えているだけで、客の盃の中がどうなっているのかなど、到底気配りは出来ていない。
 それでも話し掛ける客の相手はしているようだが、「そうそう」。「あちしが、あちしが」。ばかりが音江の耳に張り付き渦を巻いて頭(つむり)の中でうごめいた。



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