文久三年に入隊ですから、もはや陰りの見えた頃です。京都では、近藤勇の秘書的な役割で、まあ小性でしょう。
相馬が実際に出動するのは、鳥羽伏見の戦いからになります。そして江戸に下り、甲陽鎮撫隊として甲州への戦いにも参戦。
そんな地味な隊士が表舞台に立つのは、近藤勇が新政府軍に捕われの身となった時です。勝海舟らの近藤の助命嘆願の手紙を届けに新政府軍本営に向かいます。
この時、相馬は近藤に目通りも適わずそのまま、斬首にされるところを、近藤の嘆願で救われています。 そして放免後、春日左衛門率いる旧幕府陸軍隊に参加。北関東から仙台に転戦。そこで、土方歳三ら新選組と合流しました。
明治元年十一月、榎本武陽の函館政府の陸軍奉行添役兼頭並に任ぜられ、弁天島台場陸上部隊の指揮官として活躍しました。 そして土方が戦死後は新選組の隊長となっています。これは、土方の希望とも言われていますが実際のところは分かっていません。ただ土方が戦死した五月十一日からわずか四日後の十五日に旧幕府群は降伏。
新選組最後の隊長として全責任を負い、明治三年十一月、伊豆の新島に終生流罪にされました。新選組隊長ということでほかの旧幕府軍司令官よりも重罪に処されています。 しかし、新島では大工棟梁の植村甚兵衛の家に引き取られ、子どもたちに手習いを教えたりしながら平穏に過ごし、甚兵衛の娘・まつを娶ります。 明治五年十月にようやく放免されると、榎本を頼り浅草蔵前に居を移しています。島流しが許されると普通は島の娘はそのまま残していくのが通説でしたが、相馬はまつを伴っています。 しかし、相馬は蔵前の自宅で切腹。理由や死亡の日時など、「一切他言無用」の遺言のため、墓所も明らかではありません。
しかし、責任感も強く人一倍優れており、人格も素晴らしかったと伝えられていますが、わずか四日間。弁天台場の降伏の折りには、島田魁も健在です。初期からの隊士がいたにも関わらず、しかも、落ち目になってからの新選組しかしらない平隊士だった己の運命を恨んだことはなかったのでしょうか。
また、切腹に関しては、「近藤、土方が死んだのだからおめおめと生きているな」みたいな中傷も合ったと言われていますが、そうだとしたら、今も昔も、おせっかいな嫌な人はいるものですね。
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