「後味の悪い話だったね」。
「違ぇねえ」。
平兵衛は、平太郎と溜め息を洩らしていた。あのお吉の一件は、深川を揺るがす大事件だったのだ。知らない者はいない。
結局、山くじらに肉は犬のもので、それも子犬のうちは、子どもたちを釣る餌にするが、成犬になれば、子どもたちの感心も薄れるので、山くじらとして売れば、餌代も掛らずに、しかも元手なしで商いになるとふんでの所行だった。そして雌犬を一匹残し、また子犬を生ませれば、繰り返し設けが出る。
命を落とした子の、死因は肝の臓が固まり、腹に水が溜っていたので、恐らく良く火の通っていない肉を食べた為に、肉の毒が回ったのだろうといった見解だった。
「やり切れねえ」。
吐き捨てるように平太郎は呟いた。
「あっ、あちしが、あちしが」。
見慣れない女だった。青っぽい裾引きの着物を褄を取り、博多の下げ帯姿は芸妓なのだが、上背があり過蜻蛉のように痩せているので、肩の辺りの骨が着物を通しても突き刺さりそうである。まるで物干竿のような身体に、これまた尖った顎が長く、三日月のような顔が乗っている。年の頃は二十代半ばだろうか。もう少しいっているだろうか。いずれにしても大年増である事に違いはない。だが、平兵衛も平太郎も初めて見る顔だった。
「旦那さん、若旦那。本日もよろしくお願いします」。
三つ指を着いた金次の横で、同じく三つ指を着いた。
「あちしは、大吉にござんす。お見知り起きくださいませ」。
金次より頭ひとつ大きな女は、大吉と言った。
「あれ、姐さん。いけない。若女将はお留守ですか」。
金次がぺろりと舌を出す。
「ああ、音江ならおっかさんと出掛けてるが、じきに戻る頃だ。それよりこちらの姐さんは初めて見る顔じゃねえかい」。
「あちしは、あちしは。日本橋で出てましたが、今度深川に戻ったんですよ」。
「戻ったって、姐さん、深川の出かい」。
「そうそう。あちしは、あちしは、神田です」。
平兵衛と平太郎が顔を見合わせると、金次が愉快そうにぷっと吹き出し、慌てて口元を袖で隠した。
「姐さん。神田だったら深川じゃねえよ」。
「そうそう。ですから、あちしは神田で」。
「そんじゃあ、深川に戻ったってえのは、元は辰巳だったって事け」。
「そうそう。端っから日本橋で、ぽん太ってな名でお座敷に出ておりました」。
「いいけぇ。もう一片だけ聞くからよ。なら大吉姐さんは、深川は初めてけ」。
「そうそう。あちしは、永代橋を渡ったのは初めてで」。
堪え切れずに金次が大口を開けて笑い出した。
「なら、大吉姐さん、しっかりと頼むよ」。
平兵衛の肩も震えている。そして平太郎は、胸くそが震えていた。
二人を座敷に送り出すと、平太郎は平兵衛に膝を詰めた。
「おとっつあん。今の三日月姐さんの言葉が分かったけぇ」。
三日月とは口が悪い。そう思いながらも、三日月とは良く言ったものだと思えなくもない。顔が三角形を様様にして顎が長く伸びているのだ。
「そうそうと頷きながら、とんちんかんだったねえ」。
「だろう。全く会話になっちゃいねえ気がしたのは、おいらの気のせいでもねえな」。
「ああ。ああいった輩は結構いるもんだよ。同じ言葉を話していても、ちっとも通じないお人はね」。
平兵衛の脳裏に、思い込みの激しい、過ぎ去った顔が幾つか浮かぶ。
「おとっつあん。何を吹いているのさ」。
「いやね、人に耳を貸せない奴ってのは、どうも似たような顔付きだなと思ってさ」。
「三日月けぇ」。
言われてみれば、白木屋嘉兵衛、三船屋の女中だったお由実、板前だった六助も一応に顔が長く三角を逆さまにした顎だった。
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「違ぇねえ」。
平兵衛は、平太郎と溜め息を洩らしていた。あのお吉の一件は、深川を揺るがす大事件だったのだ。知らない者はいない。
結局、山くじらに肉は犬のもので、それも子犬のうちは、子どもたちを釣る餌にするが、成犬になれば、子どもたちの感心も薄れるので、山くじらとして売れば、餌代も掛らずに、しかも元手なしで商いになるとふんでの所行だった。そして雌犬を一匹残し、また子犬を生ませれば、繰り返し設けが出る。
命を落とした子の、死因は肝の臓が固まり、腹に水が溜っていたので、恐らく良く火の通っていない肉を食べた為に、肉の毒が回ったのだろうといった見解だった。
「やり切れねえ」。
吐き捨てるように平太郎は呟いた。
「あっ、あちしが、あちしが」。
見慣れない女だった。青っぽい裾引きの着物を褄を取り、博多の下げ帯姿は芸妓なのだが、上背があり過蜻蛉のように痩せているので、肩の辺りの骨が着物を通しても突き刺さりそうである。まるで物干竿のような身体に、これまた尖った顎が長く、三日月のような顔が乗っている。年の頃は二十代半ばだろうか。もう少しいっているだろうか。いずれにしても大年増である事に違いはない。だが、平兵衛も平太郎も初めて見る顔だった。
「旦那さん、若旦那。本日もよろしくお願いします」。
三つ指を着いた金次の横で、同じく三つ指を着いた。
「あちしは、大吉にござんす。お見知り起きくださいませ」。
金次より頭ひとつ大きな女は、大吉と言った。
「あれ、姐さん。いけない。若女将はお留守ですか」。
金次がぺろりと舌を出す。
「ああ、音江ならおっかさんと出掛けてるが、じきに戻る頃だ。それよりこちらの姐さんは初めて見る顔じゃねえかい」。
「あちしは、あちしは。日本橋で出てましたが、今度深川に戻ったんですよ」。
「戻ったって、姐さん、深川の出かい」。
「そうそう。あちしは、あちしは、神田です」。
平兵衛と平太郎が顔を見合わせると、金次が愉快そうにぷっと吹き出し、慌てて口元を袖で隠した。
「姐さん。神田だったら深川じゃねえよ」。
「そうそう。ですから、あちしは神田で」。
「そんじゃあ、深川に戻ったってえのは、元は辰巳だったって事け」。
「そうそう。端っから日本橋で、ぽん太ってな名でお座敷に出ておりました」。
「いいけぇ。もう一片だけ聞くからよ。なら大吉姐さんは、深川は初めてけ」。
「そうそう。あちしは、永代橋を渡ったのは初めてで」。
堪え切れずに金次が大口を開けて笑い出した。
「なら、大吉姐さん、しっかりと頼むよ」。
平兵衛の肩も震えている。そして平太郎は、胸くそが震えていた。
二人を座敷に送り出すと、平太郎は平兵衛に膝を詰めた。
「おとっつあん。今の三日月姐さんの言葉が分かったけぇ」。
三日月とは口が悪い。そう思いながらも、三日月とは良く言ったものだと思えなくもない。顔が三角形を様様にして顎が長く伸びているのだ。
「そうそうと頷きながら、とんちんかんだったねえ」。
「だろう。全く会話になっちゃいねえ気がしたのは、おいらの気のせいでもねえな」。
「ああ。ああいった輩は結構いるもんだよ。同じ言葉を話していても、ちっとも通じないお人はね」。
平兵衛の脳裏に、思い込みの激しい、過ぎ去った顔が幾つか浮かぶ。
「おとっつあん。何を吹いているのさ」。
「いやね、人に耳を貸せない奴ってのは、どうも似たような顔付きだなと思ってさ」。
「三日月けぇ」。
言われてみれば、白木屋嘉兵衛、三船屋の女中だったお由実、板前だった六助も一応に顔が長く三角を逆さまにした顎だった。
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