八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

『紫雲丸』 物語 その1

2012-10-30 01:49:08 | イケン!

 

戦後の 宇高航路 は、

復員、引き揚げ、帰郷者、ヤミ屋などが押しかけ、

異様な状況であった。

 

さらに、

進駐軍の輸送、一般疎開者たちの移動も重なり、

もはや 宇高航路 の輸送能力は限界を超えていた。

 

特に下り便(宇野→高松)は、

定員を無視して1便に2000人以上詰め込んでも

宇野桟橋に多数の客を積み残す有り様。

 

われ先に乗船しようと

怒号が飛び交い、殴り合いが起こり、

はては船縁をよじ登る者もあとをたたなかったという。

 

 

そこで、

国鉄は財政上の困難を承知で、

新型連絡船の建造を強行する決定を下し、

 

建造された第1船が 『紫雲丸』 である。 

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 全長76m 幅13.2m 1449トン

 旅客定員 二等260人 三等1401人

 積載能力 ワム型車両 14両

 建造費 29,472,000円

 

上甲板には、「貴賓室」「展望室」「売店」が設けられ、

美しい瀬戸内の風景を走る遊覧船のようだったという。

 

初就航は 昭和22年7月6日。

 

続いて翌23年には、

第2船 『眉山丸』  第3船 『鷲羽丸』 が就航し、

宇高航路 の様相は一変する。

 

 

後に、

 

『紫雲丸』 は、

昭和30年5月11日に、168名の犠牲者を出す

大事故(紫雲丸事故)を起こすことになるのだが・・・・

 

それより5年前の、 

昭和25年3月25日の深夜01時04分に、

 

『紫雲丸』 は、

直島水道 牛ノ子礁灯標 南400mの海上で

同型船 『鷲羽丸』 と衝突し、沈没している。

 

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双方の船が、相手の動きを錯覚した思い込みが

主な事故原因である。

 

この時、一般乗客は乗船しておらず、

犠牲者は、沈没した 『紫雲丸』 の乗員7名のみ。

 

約1ヶ月後、

沈没した 『紫雲丸』 は海底から浮揚。

 

播磨造船所で大修理され、

7月21日から、再び 宇高航路 に就航する。

 

総トン数は、若干増えて1480トンに。

 

この頃から、

『紫雲丸』 には不吉な噂がつきまとう。

 

・ 紫雲丸 = 死運丸

・ 1480トン = イツシヌヤラ

・ 3隻同型船を造ると、必ず1隻は不幸になる

・ 紫雲丸の画数は26画 = 急変没落の大凶数

  (※ 洞爺丸 26画 木星號 26画)

 

 

この事故には、

不思議なエピソードが残る。

 

事故からちょうど1年たった、3月25日。

事故現場では1周忌法要が営まれた。

 

そこを 『紫雲丸』 が通りがかり、

長音一声、冥福を祈る汽笛を吹鳴すると・・・・

 

『紫雲丸』 の進路前方に、

紺の作業着姿の遺体が浮かんでいるのを

乗組員が発見する。

 

その遺体は、

最後まで行方のわからなかった

『紫雲丸』 の犠牲者だったという。

 

1年もの間、海を漂い、

同じ事故現場で、同じ日に、

 

事故を起こした 『紫雲丸』 に乗る

同じ仲間に発見されるとは・・・・

 

 

   ※資料

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